2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
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   山梨・勝沼のブドウ屋さんと、年1回のコミュニケーション(ブドウ狩り)

を行うようになって、かれこれ20年以上となる。

 時季的には、9月の第1週か2週目を目安にしている。このころが、各ブドウの味が良くて、いろんな種類が豊富である。あまり遅くなると(10月過ぎ?)ものによっては、時季が早い種類(出回る時期が早い種類)のものはなくなってしまうことがある。

 今年は、7月から8月にかけて天候が不順(特に8月は雨が多く、日照りが少なかった)な時期があったので、素人的にどうかな?と心配していた。

 

 今年は、親戚・知人等に送付するために2週目に発注した。残念ながら、現地訪問がかなわぬので、FAX注文である。翌日、FAXの到着確認の電話をしたら、若旦那曰く、

「じつは電話をしようと思っていましたが、いつものメインにしているピオーネが不作で困っています。これは、ちょうど色と甘みが付くころの7月から8月の天気が不順で、全く収穫できません。生育不十分なものは、色がつかなくて、生育したと思われるものでも粒が不揃いで、中には粒が割れてしまうものが多いので売り物になりません・・・・、他の品種はそうでもないのですが・・・、困りました。今年は、ピオーネは全滅です! すみません」

と泣き声でいう。

 

ブドウ栽培のポイントは、太陽がすべてです。(お気の毒ですが)今年は、<ピオーネは>あきらめるしかないとのことでした。

 

 

   9月11日(月)付のメールにあまり心当たりのない個人名(女子)のメールがあった。はて誰だろう? とよく見ると、末尾の発信人に「如水会」とあった。

 メールの書き出しに、

「*本メールは、昨年度並びに本年4月以降の如水会主催の講演会に、お申込みいただきました皆様に秋の講演会ご案内の一斉メールをさせていただいております。」

 

「如水会」とは、一橋大学のグループ法人の一つである。種々の活動を行っているようだが、私は、時折この会や一橋大学が主催する「大学開放講座」に参加する機会があった。今回も約1年ぶりに参加した。

 講座のタイトルは、

第440回一橋大学開放講座

国境、そして企業の境界を超える分業

~日本企業の課題~

と題する講義で、仕事に直接関連はないが、自己研鑽・教養講座という位置づけで受講した。

 

 会場は、いつもの如水会館(竹橋にある)である。この会館には、このような講義で数回通ったことがあるが、それとは別に忘れられない記憶・思い出がある。

 今から40年余り前のことだが、ここ如水会館は、一橋大学卒業の友人・(故)KIK氏の結婚式が行われた場所である。今の建物は、その後建て直されたものと思う。

彼は頭脳明晰で、頭の回転の早さは抜群、周囲には彼に敵う人はいなかった。私は、当時、丸の内の事務所にあった財務部門で一緒に仕事をしたが、時折、新宿で盃を酌み交わした中である。彼は、30歳過ぎにこの如水会館で結婚披露宴を行ったが、席上、ギタリストだった奥さんが、仲間とギター演奏したことが印象に残っている。

 残念ながら、彼は定年を前にこの世を去った。惜しい逸材である。合掌

 

 

9月のあれこれ―上旬のはなし>

   月初の3日間ほど田舎に行って墓参りなどで過ごして、また職場に戻ってみたら、10年近く所属している某協会の専務理事よりメールが来ていた。

用件は、次期の協会役員体制を検討しているが、出来たら理事になってほしいとの趣旨だった。寝耳に水の話だが、一般企業・会社の役員兼務ではないし、非常勤でもあり、たいした役割・負担にもならない様子なので、これも社会貢献の一つ・ボランティアと理解し引き受けることにした。

 

   9月第1回のゴルフは9日(土曜日)。初顔合わせで、MOR氏とお手合わせ。40代半ばのイケメン男子、息子の年代だ。そういえば、もう一人も同じ年代の、娘のダンナさんでYAM氏も40代半ばで、久し振りに若手の中でのプレイは、元気で爽やかで楽しい。847分城山スタート。

 

6番ホールは、相模野のショートホールの中でも最も短い! あの95ヤードだ。誰がオナーだったか忘れたが、4人ともワンオンできず、寄せの勝負となった。

最初に12ヤードのラフから寄せたのは最年長者の私。運よくピンまで30センチに寄せてOKパー。

2番目は、危うくOBを免れたYAM氏で下りラフからの10ヤード、難しいライからピッチングでナイスオンしてピンそば20センチでOKパー。これは見事!であった。

3人目は、ベテランKOH氏、やや上りのラフ7ヤードから、ピンそば10センチにナイスオンのパー。

 

ここまで3人が寄せワンのパーをひろったのを見て、最後のMOR氏にプレッシャーがかかる。加えて、誰かが、全員パーオン外しながらオールパーだったら話題にになるねー」と更にプレッシャーをかける。こころなしかMOR氏に緊張が走る。そしてやや上りの3メートルを思い切りよくヒットした。かなり強めであったが、ボールは真ん中からナイスインのパー。やんや、やんやと喝采を受けた。

久しぶりに盛り上がった4人であった。

 

   ゴルフから帰ってきたら、携帯が鳴った。LINEに次女からのメッセージが・・・。「連絡してなかったけれど、町田に向かっています。よろしく!」

 この「LINE」というのは、取扱いにあまり慣れていない私にとっては、苦手である。汗をかきながら、なんとか先方の意図を理解しながら対応する。

 なんでも、ダンナが社用で遠出しており、ふと、思いついて「実家に行ってみようっと」、こちらには連絡も、確認もせずに出てきたものらしい。

 無計画、思いつき・・・、は父親譲りで困ったもの。

 本日、母親は別途の会食でいないことを承知の上で、急遽、晩御飯でも食べるか、と妹夫婦を集めて4人で会食となった。ま、たまにはいいか。

 

 
 

<久しぶりの帰省・墓参り>

 
 ご先祖様にだいぶご無沙汰をしていながら、なかなか思い切りができなかった。反省!

 年初に兄貴が交通事故にあって、瀕死の重傷?(2か月の入院だったが、命に別条はなかった)お見舞いに行かなきゃとも思いつつ、ズルズルと日にちが過ぎて・・・、やっと腰を上げて9月4~7日に故郷・横手に向かう。実家は今では、兄貴夫婦だけだ。

 

滞在2日目は朝から温泉へ向かう。行先は「小安峡温泉」。実家から5~60キロだが、初めての訪問だ。ウイークデイのせいもあるが、それにしても道中も町・村も空いている。昔はもう少し賑やかではなかったのかしら? と思うのだが、なかなかいい景色の峡谷も、温泉場もガラ空きで、ほんのちらほらの観光客だけ。これでは何を企画してもペイしないだろうな、と他所ごとながら心配する。

 

兄嫁(当年74歳だが元気)の運転に任せて、次に向かったのは「稲庭うどん」と「川連塗(かわつら塗り・・漆塗り)」の町・稲庭川連町(いなにわかわつらまち)と増田町にある、稲庭うどんの発祥地の元祖・佐藤養助商店の手作り工房と資料館に立ち寄る。

1日・全行程約200キロ位の、山あり谷ありの道を一人で運転してくれた兄嫁さんに感謝!(今回は免許証を持参しなかった私は運転できず…スマン)

 

墓参りを急に思い立った動機は、JR東日本の「大人の休日クラブ」のあるイベントである。「15,000円で乗り放題4日間東北の旅」がそれだ。たったの15,000円で新幹線往復座席指定券付きは、何といっても安い! 

1回のゴルフ代(食事付)位で、親孝行・墓参りと兄貴夫婦へのご挨拶・慰問ができるなんて、やらない方がバチがあたるというものだ。

 

それなりに満足した帰省・旅であった。

 

奥原 日本勢40年ぶり!シングルスで初の“金” 配球で揺さぶった

 「バトミントン・世界選手権」(27日、グラスゴー)

 女子シングルスでリオデジャネイロ五輪銅メダリストの奥原希望(22)=日本ユニシス=が決勝で、同五輪の準決勝で敗れたリオ銀メダリストのシンドゥ・プサルラ(インド)を1時間50分の激闘の末に2-1で破り、日本勢として40年ぶりに金メダルを獲得した。日本勢のシングルス制覇は五輪、世界選手権の男女を通じて初。日本選手の世界選手権金メダルは1977年第1回大会で女子ダブルスを制した栂野尾悦子、植野恵美子組以来2度目。

 敗戦から学んだ。リオ五輪準決勝。奥原はプサルラの強打に圧倒され、1ゲームも奪えなかった。「(今回は)焦ることなく落ち着いて徹底できた」。179センチと長身の相手を揺さぶり、頂点へ上り詰めた。

 「前後に配球していこう」と作戦を練っていた。ネットすれすれの「ヘアピン」や、コート後方からシャトルを切るように打って鋭角に落とす「カット」などを織り交ぜて幻惑。最終ゲーム、17-19と追い込まれても驚異的な粘りのラリーでピンチを脱した。

 11年に16歳8カ月の史上最年少で全日本総合選手権を制し、12年には日本勢で初めて世界ジュニア選手権を制覇した逸材。しかし翌年から左、右と膝の手術を受け「もう復帰できないかも」と漏らした時期もあった。

 リオ五輪後、右肩故障から実戦に復帰したのは3月。「現状でどの立ち位置にいるのか確認したいと思った試合」だったが、けがを好機と捉えて取り組んだ体力強化が結実した。「ここがゴールじゃない。この3年でもっとパワーアップして(東京五輪での)金メダルの確率を上げたい」。世界の奥原には夢の続きがある。

<このゲームのハイライトともいえる “73回のラリー” 場面をニュース(動画)で見た。また、その場面を解説している記事があった(下記)。その中には、いかにも大和撫子らしい忍耐強さ・頑張りが語られていた。度重なる体の故障を克服したことが、この勝利を勝ち取ったのだ! と感じられた。おめでとう奥原選手!>
 

 (以下:2017年8月29日 スポーツ報知 より抜粋)

「第2ゲーム、20―17とマッチポイントを迎えたが、最後は73回ものラリーで落として突入した最終ゲーム。ともに肩で息をつき、シンドゥは度重なる遅延行為で警告を受けた。奥原は足がつりそうになり「1ゲームが果てしなかった。すごく苦しかった」と感じながら、未知の境地にたどり着いた。「向こう側(の世界)に行ったのか、楽しくなってきた。もっとできる!という気持ちが出てきたら、自分の方が余裕があると思えた」。準々決勝でリオ金のC・マリン(スペイン)、準決勝で銅のS・ネワル(インド)と連続で1時間超えのフルゲームを戦っても、負ける気はしなかった。

 日本代表の朴柱奉監督が「誰よりも強い相手をイメージして最大限つらい練習をする」と感心する体力は、ラケットにも表れている。使用するのはスイートスポットが通常よりやや手元に近いもの。コントロールしやすい分、より踏み込まないとミートできない。身長157センチの小柄な体格では不利に思えるが、フットワークでカバーする自信がある。契約するミズノ社に「キャッチする感覚がほしい」と要望。フレームが面の中央方向にだけたわむ構造で、持ち味の守備力をさらに生かせるよう作った。

 「ゴール」と位置づける東京五輪を見据え、昨冬の右肩故障を機に利き腕の右に偏った筋肉を一度落とし、左右バランスよく鍛え直す肉体改造に励んでいる。「もっとパワーアップしたい。絶対に満足しない」。3年後の東京で金メダルを手にするまで、奥原の戦いは終わらない。

 ◆奥原 希望(おくはら・のぞみ)1995年3月31日、長野・大町市生まれ。22歳。埼玉・大宮東高2年の2011年に全日本総合選手権で当時史上最年少の16歳8か月で日本一。16年全英オープン優勝、リオ五輪銅メダル。157センチ、51キロ、右利き。」

  資料:「大腰筋を鍛えなさい」 著者 筑波大学大学院教授 久野 譜也氏 より抜粋 

ここが衰えると歩けなくなる!

上半身と下半身をつなぐ唯一の筋肉」って?

 
 よく「人は足から老化する」と云われます。

 皆さんは、下半身と上半身とでどれくらい筋肉量の減少率や萎縮度が違うかご存知でしょうか。

 

なんと、下半身の方が1.5倍も大きいのです!

 

 例えば、下半身の太ももの筋肉は、50代になると20代の時に比べて30%も減少してしまいます。しかし、上半身の上腕の筋肉は、同じ50代で12~13%程度の減少にとどまっています。

 こんなにも筋肉の減少率に差があるのですから、「足から衰えていく」のも当然なのです。

 足の筋肉が衰えれば、だんだん歩行能力が低下してくるようになります。中でも衰えが表れやすいのが「歩くスピード」です。

 歩幅は、40代、50代から年齢を重ねるごとに少しずつ低下していくことがわかっています。

 ですから、老化で歩行スピードが低下するのは、徐々に歩幅が狭くなっているせいということになります。

 では、どうして歩幅が狭くなっていってしまうのか?

それは、近年の研究によって、歩行能力低下に影響を及ぼす筋肉が【大腰筋】であることがわかりました。

 

大腰筋は、腰の脊柱と太ももの大腿骨とをつないでいるインナーマッスルです。

大腰筋は歩行の際に足を引き上げたり踏み出したりする動作を司っているが、この筋肉が加齢とともに衰えてくると、足を大きく上げたり大きく踏み出したりすることがだんだん出来なくなってきます。それで徐々に歩幅が狭くなって、歩行スピードが低下していくという訳です。

 

<あの日、あの時、あの場所で、つまずいたり転んだりしてしまったのは、“不注意”でも“不運”でもなく、明らかな老化現象であったという訳ですね>

 

次回以降は、大腰筋の重要性と、その鍛え方に取り組んでいきます。



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