2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
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技術開発が呼び込んだ金メダルと世界新[競泳男子100m平泳ぎ]
1968年、17歳の田口信教は、メキシコシティー五輪で失意を味わう。
男子100M平泳ぎ準決勝で1分7秒1の世界新記録をマークし、一度は歓喜に浸ったが、「田口キック」と呼ばれた足の動きが、バタフライのドルフィンキックと判定され、失格となってしまったのだ。
本当なら、自分が金メダリストだったのにーー。
そんな思いが田口を強くする。キックに改良を加え、21歳で迎えたミュンヘン五輪。田口の狙いは100mでの金メダル獲得と、世界記録の更新だった。
8月29日に行われた100m平泳ぎ準決勝で、田口は1分5秒1の世界新記録をマークする。メキシコシティー大会以降、田口は1分6秒の壁をなかなか突破できないでいたが、一気に記録を伸ばしてきた。
そして翌日行われた決勝。なんと世界記録保持者は出遅れる。50mの折り返しでは7番手。これは厳しいかもしれないー。関係者は不安に思ったというが、田口はそこから驚異的な追い上げを見せる。先行する選手を一気に抜き去り、ブルース、ヘンケンといったアメリカ勢を抑え、先頭でゴールにタッチした。タイムは1分4秒9.世界記録の更新だ。
この金メダルは、日本の競泳界にとって、1956年のメルボルン大会の200m平泳ぎで古川勝が獲得して以来のものとなった。「水泳ニッポン」の歴史が,甦ったのだ。田口は200m平泳ぎでも銅メダルを獲得し、ミュンヘン大会の日本の「顔」となった。
田口の金メダル獲得は、「技術」の勝利だった。田口キックの開発、改良は、日本の高度経済成長期を支えた技術力の発展と重なるものがある。勝つためのアイディア、工夫、そして技術を習得するためのたゆまぬ鍛錬。創意工夫が世界の頂点へとつながっていたのである。
《今から47年前の1972年夏(昭和47年)、田口の快勝に日本中が沸いたのを思い出す。特に、折り返してからの50mの追い上げは、実況を見ながら日本中が皆んなで声を限りに応援した気がする・・・私も、眠い目をこすりながら東京で応援したのを思い出す》
<資料:AGORA Augast & September 2019 文=生島 淳 >
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