2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
≪海外ひろい話・・その1≫
千葉工業大学の教授が、アメリカでの学会に出席するためフロリダのホテルに泊まった時のこと。
手持ちの円をドルに替えようと、若くて明るい感じの美女がいるサービスカウンターに寄った。愛想よく1万円札を受け取った彼女は、デスクの上のファイルを広げて見比べ始めた。
偽札じゃないか、一応チェックするつもりなんだなーー先生は思った。
「ところが、そのうち彼女の顔から微笑が消え、眉間にシワが寄ってきたんです」
見比べるのをやめると電話機を取り、あちこちへ電話しだした。低い声で、真剣な表情になっている。
やがて、きっ、とこちらに向き直った彼女は言った。
「これは偽札です。両替できません」
「え!? この札のどこがおかしいんですか」
驚いて問い返す教授に、彼女は答えた。
「ファイルのカラーコピーにあるこの模様が、あなたの1万円札にはありません」
彼女が指さす“模様”を見た教授は、思わず噴き出した。
そこには漢字で、こうあった。
「見本」
*
さて、
「それは、サンプル、という意味の日本語なんですよ」
と教授から教えられた彼女は、1万円札を持ったままサービスカウンターを走り出て、ロビーの端にある日本人団体客のためのツアーデスクへ行った。
そこで「本物」と太鼓判をもらって帰ってきたときには、こぼれんばかりの笑顔が戻っていた。
「すみません。あたし、このカウンター勤務になったばかりで、1万円札を見るのが初めてだったものですから。怒ってらっしゃらないでしょうね?」
「怒ってなんかいるものですか」
先生はにこやかに応じた。
とさ。
*
≪海外のひろい話・・その2≫
今年の1月に海外研修があって、シアトルに3日ほど滞在した。
帰国前日に、全員(8名)で夕食会を行った。
夕食会の後、ホテルで2次会と相成った。
全員がすっかり打ち解けていい雰囲気の中、その場解散となった。
*
さて、その場の精算は、「ルームナンバー:××、Harenov、S」
と、サインしたはずなのだが・・・。
翌朝、フロントでチェックアウトしたけれど、昨夜の請求がついてない。
慣れない英語で、昨夜のレストランの件を申し出るも「それがすべてである」
と、涼しい顔でこちらを向いている。
それでも日本人の馬鹿正直さ(?)で、もう一度現地案内人を介して再調査を依頼したが取り合わない。
「自分が出した精算書に間違いはない」
こう言って取り合わない自信もいいが、日本的経営・応対ではたいてい「そうですか、では調べますから少々お待ちください」が当たり前ですが・・・。
「ここまで申し出たのにそういうのであれば、このままにしておきましょう」
との現地案内人のすすめにより、その場を失礼した。
*
その1週間後、我々が利用した旅行会社を通じて請求させてほしい旨の連絡があった。
米国でも指折りの品のいい街シアトル。でもホテル&ホテルマンは日本の2流以下のように思えた。
間違いはどこにでも誰にでもある。要は状況判断をいかに行うか、いかに臨機応変に対応するかである。我々がたまたま旅行会社を通じた旅行者であったから、そこを通じて回収できたが、これが一個人宿泊者であったなら、後日回収は難しかったかもしれない。
「だからあのとき請求ありませんかと言ったのに・・」と言ってやりたかった。
あの傲岸なホテルマンは今はもういない・・・・かもしれないが。
*
「リスクはどこにでもあり、どこでも発生する。要は、発生を予測した事前予防コントロールと、発生後の対応と是正をいかに迅速に行うか」である。
米国は内部統制の先進国だが、サービス業については“日本式”の方が優れているように思うがどうか。
PR <社長は元気で留守がいい>という話
愛知学院大学の岩田憲明教授の話。ユニークな経営論で名古屋を中心に熱心な信奉者を持つ先生だ。
[社長室で難しい経営学の本を読んでいたり、シンクタンクに調査委託して結果を待っていたりするような人が、成功した試しがありません]
シンクタンクに高い金を払って今後の経営戦略の指導を頼むと、様々な角度から分析して、「これからの成長分野はこれこれで、そこへ進出するための戦略はこうだ」とまことに理路整然としたレポートが届けられる。
「でもね、そんな作文で成功できるなら、会社経営ほど楽なものはありませんよ」
*
「成功する経営者は、まずフットワークがいい。気楽にどこへでも出かけます」
但し外へ出ても、同業、同窓、同郷の付き合いばかりではダメ。
「知らない人と積極的に会って人脈のネットワークを作る。そこから情報が入ってくるようになるのです」
これができる経営者には、メゲンゾ=明・元・素の3条件が備わっているものだ。「性格が明るく、快活で、素直に人の話を聞く。そういう人の所へ情報も人も集まってくるのです」
*
愛知・刈谷に本社を置き、中部圏を中心に百店舗以上を展開して年商4000億円以上を上げている、ホームセンターの業界首位のカーマホームセンター(現DCMホールデングス)。
[この会社は、経営研究会で知り合った3人の若者がアメリカへ揃って視察旅行に行って、ホームセンターという新しい業種に出会ったのがきっかけだったのです]いまでは東証1部上場企業に成長し業界ナンバーワンである。
*
経営トップでなくても、この理論は大抵の人に通じるものと思う。
会社経験50年で社内外の様々な機会を通じて知人を得た。経営トップにはなれなかったが、そういう人たちから色々な形で教えられたことが沢山あって感謝している。いまでも情報交換は何らかの形で行っている。
[持つべきものは知人・友人]と私の人生訓に書いてある。岩田教授にはそんな言葉を後押ししてもらった気がする。
<与えよ、さらば>という話
「オフィスで私は孤独だ」
[家庭生活がうまくいかない]
そんな人間関係を持っている人、いませんか。
「それは、あなたが周りに“お返し”をしないからです」
朝、オフィスに行けば、同僚が、
「おはよう」
と声をかけてくる。
それに対してちゃんと、
「おはようございます」
の挨拶してますか。
[今日はなんだか元気がないね]と気遣ってくれる。
面倒くさがらず、うるさい奴だな、という顔もせず、
「ちょっと歯が痛くてね」
と返事してますか。
この“お返し”をしないと、相手は離れていく。人間関係が成り立たなくなる。
「人間関係とは、やり取りなのです。言葉、あいさつ、気遣い、視線、といった目に見えない物のやり取りから成り立っています。それを無視する人は、孤立するほかなくなっていきます」
挨拶や気遣いの他にも、助言、慰め、労力の提供、時間を割くこと・・・・。
そうしたものを与え、与えられることで、人と人とのつながりはできていく。
だから“お返し”が出来るようになったら、こっちから積極的に与えるようにすることだ。
[求めよ、さらば与えられん]
というのは聖書の言葉だが、
「それをもじって『与えよ、さらば与えられん』」としたらどうか。
だが、与えよ、といっても、何を与えればいいのか。
[そういう時は、せめて相手の話を聞いてあげなさい]
相手の話を真剣に聞き、心から相槌を打ち、褒めたり、力づけたりしてあげる。
そうやって聞いてもらうことで相手は、心のわだかまりを吐き出したような満足を覚え、感謝する。
聞いてあげることも、立派な与える行為なのだ。
周囲との人間関係を腹の中で不愉快だと思っていても、取りあえず表面だけ笑ってみよう。
すると、その笑顔を見て相手の方が変わる。
「こいつ、前より話がしやすそうだな、と相手もニコニコ話しかけてくる。そこで、こちらもそれにお返しをします」
これを繰り返すうちに、お互いににこやかに話すのが普通になる。
「人間はまず表面を変えることで、心の中まで変化していくものです」
という。心がけたいものです。
<ニュルンベルク> 中欧マルクト広場にある聖母教会では、1509年に取り付けられたドイツ最古の仕掛時計が毎日正午に動き出す。現れ出る人形は7人の選帝侯達である。 左側の泉の塔では、黄金の環があって、3回廻しながら願い事を唱えると願いが叶うとか・・・・・・私はやらなかったが。 <ライン川流域・・・世界遺産ライン川の自然景観> 今回の旅の終わりは、ロマンテック・ラインと呼ばれるリューデスハイムからザンクト・ゴアースハウゼンまでのライン川沿いのドライブ。 この間の有名な「ローレライの岩」やグリム伝説集の「ビンゲンのネズミ塔」などがある。 ≪リューデスハイム≫ なだらかな斜面に広がる一面のブドウ畑(写真)を背後に、リューデスハイムの小さな町がある。 民家の間にワインハウス(ワインを飲ませる店)が点在している。有名なドロッせルガッセ(つぐみ小路)は街の中ほどにある。 (写真右) ただ1本の細い道なのに、両側にズラリとワインハウスが並ぶ。我々が昼食に寄ったハウスでは、ピアノの弾き語りが有名なお店であった。 有名な「ローレライの岩」を通り過ぎて間もなくのザンクトゴアースハウゼンの丘の上から、ライン川の蛇行している景色を眺めて10日間の“中欧の旅”はフィナーレとなった。 (この日、ライン川のドライブ中は再び雨模様であった。しかし、最後のライン川眺望時には奇跡的に雨が上がった。「ローレライがほほ笑んでくれた」・・・それぞれ旅人の勝手な理解だが、ともかく晴れてくれて結構でした) <10日間の“よくばりドイツ・ロマンティック街道と中欧5カ国の旅”は無事終わりました。長い休暇にご理解いただいた皆さんに感謝したい・・有難うございました> <プラハ・・世界遺産:プラハ歴史地区>
プラハ城は城塞都市の名残である。ヴルタヴァ川とカレル橋を前景に、丘の上全体にプラハ城が広がっている。(写真)
城が最初に建てられたのは12世紀。現在の形になったのはカール4世時代の14世紀である。
1410年制作された旧市庁舎の天文時計(写真)。真ん中が時刻を示し、下は暦板。そして上の窓は12人の使徒が顔を出す仕掛時計。毎日9時から21時まで1時間毎に動く。もう600年も時を刻み続けている。毎正時間前に広場は見学者でいっぱいになる。
10世紀に建てた簡素な教会を基に、14世紀、カール4世によってほぼ今日の姿になる。ステンドグラスが素晴らしい。(写真右)
カール4世が神聖ローマ帝国として君臨した14世紀後半、ヴルタヴァ川に石橋をかけ、中欧初の大学を設立、教会や修道院の建設、そして街の区画整備も行った。(写真右:カレル橋からプラハ城を望む)
(写真左:プラハ城から旧市街を望む) (写真右:旧市庁舎前広場からティ-ン教会) ヒトラーがボヘミアを併合した時、チェコは軍事力があるのに戦わなかった。それは美しいプラハを戦場にしたくない気持ちによるものでなかったろうか。 1968年、ソ連軍による軍事介入の時も無抵抗だった。何事にも慎重で思慮深い民族性が、千年の歴史を誇るこの美しい古都を守った、といわれている。
(そんな歴史の場面に立つと、往時の人々の苦悩が偲ばれ感慨ひとしおだった・・・プラハは今回の旅で一番印象深い街だったと思う)
感動といささかの興奮を抑えながら、再びチェコ国境を越えてドイツ・バンベルクに向かう。 <バンベルク・・・世界遺産・バンベルク歴史地区と街並み> 多くの中世都市は、教会と市庁舎のたつマルクト広場が中心にあり、それを民家が取り巻くように出来上がっている。 しかしこの街ではレグニッツ川左岸の丘陵地帯に大聖堂や市況の館であるノイエ・レジデンツ、教会(写真右下)、修道院が立ち並び、市民が築き上げた旧市街(写真下)は川の右岸に広がっている。そして市庁舎は川の真ん中(写真右)に立っているという、大変珍しい街である (バンベルクの街並み) (聖ミヒャエル教会遠望) 7日目(5月25日)プラハからチェコ国境を越えてドイツ・バンベルクを見学し、宿泊地ニュルンベルクに到着した。 <次回は最終日、ニュルンベルクから古城街道を西へ・・・・7月8日記> 広場を囲んで色とりどりに飾られた家々が整然と立ち並ぶ様子はまるで絵本に描かれた街のようで、“モラヴィアの真珠”と呼ばれている。
(昔、東京にも“丸の内(別名三菱村)”があって、ビルの高さが9階建てで揃えたオフィス街だった。・・・・・今は見る影もないほど、高層ビルが乱立してしまった。昭和45年、その“丸の内”で仕事をしたいと憧れて入社したが、今は遠い昔の思い出である) ボヘミア地方の城の中では、プラハ城に次ぐ規模の大きな城。
様式の異なる建物は第1から第5までの中庭で結ばれている。(写真右)
第6日目(5月24日)は、スロバキアからチェコに入る。天気は引き続き良好。テルチの印象は、まるでおとぎの国に入ったような雰囲気であった。 チェスキークルムロフは中世の都市。極端に蛇行した川(ヴルタヴァ川)に守られ、高台の城を中心にルネサンスの街並みが残る小さな町であった。
夕刻、本日の宿泊地チェコの首都プラハに到着した。 <晴天は3日続いた。あと2日なんとか持ってほしい・・・7月8日記> |
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