2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
<「島 秀雄 in 大連」を読んで>
(2012年 12月21日 読売新聞夕刊「ちきゅう 時の散歩」より) 島 秀雄:大阪生まれ。東京帝国大機械工学科(現・東大工学部)を卒業 し、1925年に鉄道省入り。デゴイチの愛称で知られる蒸気機関車D51の設計者で、55年からは技師長として東海道新幹線の設計にあたる。宇宙開発事業団の初代理事長も務めた。父安次郎、次男隆も鉄道技師で3代にわたり高速鉄道開発に携わった。 私は、ここに登場する“島 秀雄”氏をある時期まで知らなかった。 今から10年以上も前のことであるが、前前職の仕事の関係でお世話になったある先生(弁護士、故人)のご自宅に遊びに行った時に、奥様から[父の記念に作りました]と頂いたオレンジカードは、島 秀雄様が新幹線(初期の頃の車両でした)をバックにされたものでした。あまり詳しい経歴も聞かないまま、記念のオレンジカードはずっと私の机の奥深くしまいこんだままとなっておりました。(恥ずかしながら、島 秀雄様は鉄道関係に功績のあった方程度の認識でした) 2,012年12月21日付読売新聞・夕刊に掲載された記事を見て、あらためて氏の偉大な功績に心を打たれました。・・・自分が昔から利用させて頂いてきたD51の蒸気機関車と東海道新幹線の生みの親を知らなかったなんて・・・恥ずかしい思いと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 私は、この記事を読んですぐに机の奥深くしまいこんであった、オレンジカードを取り出して島様の写真にお詫びしました。 以下は、その記事の抜粋です。 【日本占領時代の1934~43年、中国東北部には、当時としては驚異的な超特急『あじあ号』が走っていた。 「新幹線の生みの親」と称される鉄道技師、島秀雄は戦前、終着駅があった大連を2度訪れ、広野を疾走するあじあ号の雄姿を目に焼き付けた。 ハルビン―大連間の900キロを12時間半で結んだあじあ号は最高時速130キロ。東洋一とうたわれた。当時としては斬新な流線形の蒸気機関車「パシナ」が主に牽引。客車は冷暖房完備。食堂車ではロシア人ウエイトレスが特製カクテルをサービスする夢の豪華列車だった。 島が大連を視察したのは、39年と40年。当時、東京―大阪間を4時間半で結ぶ[弾丸列車計画]に取り組んでいた。あじあ号を運行していた日本の国策会社[南満州鉄道](満鉄)の手配で、大連―長春間に乗り、「我々の計画なら、時速200キロも不可能ではない」との感触を得たという。 12両製造されたとされるパシナの1両が、大連駅近くの倉庫に保存されていた。戦後、中国政府に接収され、79年まで現役として活躍したという。(中略) 島は帰国後、あじあ号をけん引した蒸気機関車「パシナ」によく似たデザインの蒸気機関車を設計した。弾丸列車計画は敗戦で頓挫したが、大連視察の経験は、戦後、国鉄技師長となった島らによる新幹線開発へつながったと言える。(中略) 日本占領期に作られた大連駅は、上野駅をモデルにしたとされる。乗客は2階を通ってホームへ下り、到着客は地下道を通って1階から駅外へ出るという、当時としては先進的な立体構造。島が利用した時とほぼ変わらぬ姿の駅に12月1日、真新しい流線型の列車が乗り入れた。あじあ号と同じ大連―ハルビンを結ぶ高速鉄道が開通したのだ。最高時速350キロで所要時間は最短3時間半。 満鉄には『侵略』という正当化できない歴史がつきまとう。しかし、鉄道を愛する人々の夢は、80年の時空を経て、どこかでつながっているように思えた。 (文 竹内誠一郎)】 ≪島 秀雄様の記念のオレンジカードは我が家の宝物として保存しておきたいと思います≫ PR |
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