2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
<【晴ればれ】という煎茶の話>
煎茶【晴ればれ】というブランドがありました。
「ミントのような鼻に抜ける香りが特徴の≪さやまかおり≫のブレンドです」
とアピールしております。
・おいしいいれ方の目安(カップ1杯分110ml)
お湯の温度70~75°C →浸出時間45秒~1分
・お湯の温度と浸出時間はお好みで調整してください。
・ふたをして蒸らすとより一層おいしく召し上がれます。
と製造元が言っております。
(製造者:株式会社ルピシアB 東京都渋谷区代官山町8-13)
デパート、駅ビル等の紅茶、日本茶のコーナー(またはルピシア専売店)で販売しています。(ネット通販もあります)
(因みに、飲んでみましたが・・・・冒頭に言っているほどの香りは・・・
鼻が悪いのかしら?と思いました)
そのうち、「晴ればれ会」例会はお茶を飲みながら・・・なんてなるのかも。 PR
<なにがなんでもIPO?>
過日、昔の知人から聞いた話。 今をときめく、リチュームイオン電池の部品メーカー(中小企業)がある。 創業して5年だが、生産工場は日本に近いアジアのある国に開設し、ようやく事業も軌道に乗りかけてきた。 生産工場を自前で作ると“カネ”がかかる。 規模、内容にもよるが、建物・設備だけでも数十億はかかる。それに生産、営業が軌道に乗るまでは運転資金もいる。 元々自己資本の少ないところからスタートしているから出資、借入等に依存せざるを得ない。外部負債の中にはそろそろ返済期限の来るものもある。いずれ上場して、資本市場から資金調達を目論んできたという。 上場を前提に起業した会社はまず事業を軌道に乗せることが先決だ。 例外的に事業が立ち上がらない段階でも上場を目指すケースがあって、それなりの受け入れをする市場もあるが、この場合には技術・ビジネスモデルがあって、事業計画がしっかり立てられていることが前提だ。 さて、該社の場合は色々スポンサー(金融機関やべンチャーキャピタルなど)に期待されてこれまで企業を立ち上げてきたものらしいが、創業5年も経過すると、そろそろ年貢の納め時が来ているらしいことは想像に難くない。 第三者的にみると、業種、会社を取り巻く業界環境、事業内容等は時代背景もあって、将来性が期待される業種・業界だ。 上場・資金調達の理由は明白である。だが、一つだけ気懸りな点がある。それは今後の「事業展開・計画」がしっかり立てられてないこと。上場後の経営管理体制も然りである。なんでもこれから作り上げる、すなわち「走りながら考えていく」という。 どういう企業を作るか、経営するかは企業の自由であるが、上場となるとそれなりの基準、線引きが必要となる。その辺を判断するのが、上場審査基準となるが、最近の取引所審査基準は、IPOが低迷していることもあって出来るだけ上場しやすくする方向が打ち出されてきた。一方で、上場後にふさわしくない企業となった場合のいわゆる廃止基準も厳しくしようとする流れ(方向)である。 例え企業として未整備や整備遅れでも、それなりの成長性や収益性が見込めるのならウエルカムとするという訳だ。やる気があって、将来性があれば、ともかく入学オーケーで、そのあとで合格点を取ってくれ。ダメなら退学ですと言う訳?です。 それでは上場審査は何のためにあるんですか? 主幹事証券の推薦は何を根拠にするのですか? 上場申請会社の必要十分条件に一定のレベルはないのですか? と疑問に思う。 それとも株式投資はあくまで自己責任でやってくれというのですか? こういう不完全な会社を良しとするIPO市場では益々上場後の事故が多くなり、退場会社が多くなり、結局市場の信頼性がますます低くなりそうな気がするがどうだろう。 個人投資家(多少経験のある私でも)は、投資判断に独自の調査もするでしょうが、頼りになるのは一定の審査・推薦を受けてきた企業という信頼感が一つの投資判断のよりどころ(前提)となるのではないだろうか。(将来性とか株価予想は別にして) 又、上場を目指す会社は、上場会社になることによって、上場会社の企業運営を通じて事業の持続的発展と社会や株主への還元をしていくという崇高な上場目的はどうなったのでしょうか? そんな矛盾と心配をよそに、該社は上場審査基準の緩和に期待しつつ、先のこと(上場後の体制整備や事業運営等)は走りながら考えるとしてIPOに突っ走っているようだ。 会社にとっては、資金調達さえできれば後はどうにでもなる、そんな楽観的な判断があるように感じてならない。 事前に危惧された事柄を“緩和”という甘い判断でやり過ごし、とどのつまりは会社も取引所も主幹事証券もだれも責任取らない。責任取るのは投資家だけである。こんなIPOでいいのだろうか、これで上場会社になったという誇り・満足感が得られるのだろうか。 たかがIPO・・・されどIPO。安売りしてもらいたくないものである <日本海側は大雪です>
今年は大雪の年のようです。
昨日、実家(秋田県横手市)に電話したら、昭和48年以来の大雪だとか。
平地の積雪が1.5メートルという。実際の状況を見たことのない人はあまりピンと来ないかもしれないが、これが大変なことなのです。
何が大変というと、まず、家の前の雪を掻か(いわゆる除雪)なければなりませんが、道路の両側に雪を寄せることになりますから、いやでも両側は高くなります。まるで雪の回廊のようになります。
次に、屋根に積もった雪を下さなければなりません。そうしないと雪の重さで、家の引き戸がギシギシ、ドアも開かなくなる恐れがあります。極端な場合家が押しつぶされることもあって、降雪が続いた時(積雪が多い時)は屋根の雪下ろしは待ったなしで行わなければなりません。下ろした雪が家の軒下に積み重なると更に積雪の高さが増して、家の1階部分は雪に埋もれてしまう事もあります。そうなると窓明かりも入らない状況になり、さらに火災等で外への脱出ができなくなりますので、安全上裏木戸とか、窓の周辺の積雪をどかします。生活の知恵と言うか、リスク管理を心得ているのです。でも時々、老人所帯で雪下ろしができなかったが為に・・・とか、逃げ遅れて・・とか、悲しいニュースに出会う時があります。
ここ数十年間は、地球温暖化の影響からか雪の量が少なくなっていたようですが、今年は近来にない大雪に見舞われているようです。
こんな年は、ほとんど毎日のように雪と闘いながらの生活を強いられるのです。だから生産活動は鈍ったり一時ストップしたりします。
幹線道路は、除雪車が出動しますが、市内の建物密集地では除雪した雪の処分場所に困ります。道路は圧雪状態となり滑りやすくなります。時々坂道でスリップしたり、えんこしたりが続出します。一度スリップした車はなかなか脱出できません。通りがかりの人達で車を押してあげる風景もあります。雪国ではみんな協力し合います。
雪かきや雪下ろしが毎日のように続くと足腰が痛くなります。
それでも雪国の人達は誰に愚痴を言う訳でもなく、来る日も来る日もただひたすらに雪と格闘し続けるのです。
そんな情景を思い浮かべながら心の中で、雪国の皆さんがんばれ! と叫んでいます。 <12月の(辛かった)思い出・・その2>
4年ほど前の話。
11月頃から“微熱“が続いて悩まされた。37度より37度5分位の熱があり、風邪の気配はなく、痛みもなく、ただ何となくだるさがあって、眠れない日々が続いた。主治医から、風邪がらみの解熱薬を処方してもらったが、一瞬下がってもすぐまたぶり返す。一向に下がる気配なし。
もしやと大学病院で精密検査してもらう。結果は、従来からの主治医の診断による処方薬(降圧剤・不整脈・コレステロール治療薬)だけで問題ないという結論であった。さて、ではこの微熱は何だ!・・・せめてセカンドオピニオンを得たのは良いが・・・依然として原因不明のままの不安な毎日が続いた。
折しも65歳の誕生日祝いに、子供達からプレゼントされた旅行券で京都旅行を計画していた。体調不良ながら女房と2泊3日で、紅葉の京都散策に・・・・。 三日間とも天気良し、紅葉真っ盛りの京都の名所<南禅寺~永観堂~清水寺~高台寺~東福寺>を必死の思いで廻ったが・・・・。今思うと辛かった!
3日目は、とうとうホテルで休養でした。あのとき京都駅の薬局で買った体温計をその後使用したことはないが今でもお守りのように持っている。
その後も体調不良のまま師走も押し迫り、年末年始休暇に入った。
微熱は相変わらず続いており、寝不足が続いていて疲れもあったので、温泉でゆっくり眠りたいと思って熱海~箱根を年末年始1週間の温泉三昧で過ごした。1日3回の食事・温泉・睡眠の繰り返しである。(食べて温泉入って寝るだけの生活。)
何日目だったか定かでない(多分5日目くらい?)が、ある日、気分がすっきりして体が軽く感じられた。体温を測ってみたら、36.5度の平熱に戻っていた。久し振りの爽快感であった。
あの微熱は・・・・何だったろうか?・・・と今でも思う。
きっと疲れが溜まっていたのかもしれない。そう思うようにしている。その後は疲れたかな~?と思った時は、温泉へ行くことにしている。
今年の正月は、久し振りにあの時の温泉宿に泊まりました。
<12月の思い出その1>
2000年12月20日
忘れもしない出来事がありました。
その日、8時30分頃私達は、都心のある証券会社のディーリングルームの2階席にスタンバイしておりました。
そして9時。初値2,500円。周りから拍手が沸き起こりました。
とうとうやったぞ!・・・・誰彼となく握手握手でした。
そのあと、ディーリングルームに案内され、室員全員のスタンデングオベーションに迎えられ、会社と我々一人づつを紹介してくれました。
感激で思わず涙が・・。
あれから10年経ちました。
今もS社はニッチな市場ではあるが、研究・開発型企業として活躍しています。
携帯電話、パソコン、デジタルカメラ、自動車、太陽光発電等々になくてはならない部品の製造装置を生産するメーカーとして、世界で活躍している。
上場10周年の社長の心境を聞いた。
「企業は継続すること、その為には利益を出すこと」
と社長は言う。そして、将来に向かっては、
「グローバル化への対応と技術革新を目指す」
ことを社長方針として掲げる。
この10年間苦労してきた社長の心境が滲み出ている言葉である。
彼は、“上場“を目標に定め、自ら社員・役員をはじめ社外の関係者を説得して歩いた。その固い決意と、情熱が皆を動かした。
上場は一人で、あるいは関係者だけで出来るものではない。皆を一つにし、ベクトルを合わせ、目標に向かってあくなき挑戦・努力をさせることが必要だ。そして自分たちの力で目標を達成することは、その後(上場後)の維持・運営にも大切な要素となる。なぜならば上場は単なる通過点に過ぎない。その後の企業発展・運営にも企業の総合力として生きてくるからである。
10年前の苦しかった、しかし楽しい思い出である。
同社の繁栄を祈っている。
<わが生涯、最初で最後?>
2000年12月9日。
忘れもしない我がゴルフ人生で唯一のホールインワン達成の日。
上場を控えていた頃で不真面目と思われますが、その時期には上場日も確定していた頃です。
場所は神奈川県の名門コースの一つ“戸塚カントリークラブ”
西コース 5番ホール 148ヤード 使用クラブ6番アイアン
その日は某会社の接待でした。
天気は冬晴れの微風。
いつものペースでボギーだったりダボだったりの調子。
4番ホールがダボだったので、打順は4番目。
何の気負いもなく普通に打ったボールは、真っ直ぐに上がったので多分乗るだろうと、ティを拾いながらグリーン方向をチラッと見たが、ド近眼の私にはグリーンに落ちたくらいの感じしか見えなかった。
「ウオ~入ったーー!!」と社長の飛びあがった声に、
「うん?ほんと?」としかいえなかった。
残念ながらピン手前30センチ位にバウンドしたのは見えたけれど、
2バウンド目でガシャッと入ったのは見えなかった。
ともかくグリーンに行ってホールの中を確かめた。
「ある!ある!」 & 「キャディーさん~! 僕パターいらないよ」だって・・・・・・・言ってみたかったんです。
偶然は重なりました。
その日の朝。同クラブでスタート前に出会った人。私が尊敬する弁護士I氏(故人)ご夫妻と階段でバッタリ。奇遇です。
そしてその日帰宅したらその先生から、京都伏見の新酒が届いていた。(いくらなんでもホールインワンはまだ知らないはずです!)
もう1つの偶然。
「その日は家内の誕生日でした」
こんな偶然があるだろうか。
いまでも2000年の12月は忘れられないのです。
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