2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
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「ヴェルサイユ宮殿」の見学を終え、パリへ向かう車中で、今夜「エッフェル塔」に行こうという話が持ち上がった。最初は4人だった。だが、夕食後ホテルの前には12人の同行の士が集った。 教えられた地下鉄を乗り継いで「シャイヨー宮」に出た。 そこからの「エッフェル塔」の夜景はオレンジ色のライトアップが鮮やかで、天にも昇る威容であった。 我々は時間の過ぎるのを忘れ、思い思いに写真やビデオ撮りに熱中した。いつの間にか時間が経過し、「エッフェル塔」の見学時間があまりないことに気づいて、急いでチケット売り場に並んだが遅かりし! 10時を過ぎて3階の展望台行きは締め切り。仕方なく2階の展望台までで諦める羽目になった。 それでも2階展望台から望むパリの夜景は、下を流れるセーヌ川の水面に街の明かりが映え、心が洗われるような素晴らしい夜景であった。 左の写真は昼の「エッフェル塔」 <次回はパリ市内観光へ…いよいよ最終コース> PR
・・・・ 「ルーアンからヴェルサイユ宮殿へ」・・・・
フランスの旅も6日目。 モン・サン・ミシェルを早朝(7時30分)に出発。この時刻だとまだ朝日が昇っていない。 残念ながらモン・サン・ミシェルの朝の写真はとれずじまい。 パリに向かって東に走ること3時間余り。 10世紀にはノルマンディ公国の首都として繁栄した「ルーアン」に到着。 中心部には1250年建造の「ノートルダム大聖堂」がその威容を誇る。 1431年5月30日。ルーアンの旧市場広場で19歳のジャンヌ・ダルクが火あぶりの刑を受けた。今は「救国の聖女」ヒロインとして処刑の場所には1979年完成のジャンヌ・ダルク教会が建っている。 (写真下) この町には中世から近世に建造された建物がしっかり保存されている。(写真右下) 上階に増築される毎に建物がオーバーハングしているのが面白い。地震国日本ではとても考えられない発想である。 この町の名物「黄金の大時計」・・12時間の表示が360度に描かれている。(上下がない)・・写真左下 ルーアンから1時間走って、世界遺産「ヴェルサイユ宮殿」に入る。 「1661年 ルイ14世がパリから宮廷を移すため、バロック様式でヴェルサイユ宮殿の工事に着手した。当時は木も水もない村でいわば荒涼の地。セーヌ川から水を引く工事が難航して、21年後には未完成の状態で宮廷が移転し、1687年に「鏡の間」(写真下)が完成。長さ73メートル、高さ10メートルの中に華麗なシャンデリアと578枚の鏡が埋め込まれて豪華絢爛。 王朝内部の行事や外国から来る特使の謁見に使われた。 宮殿全体は1710年に完成。当時宮殿に住む貴族は約1000人。仕えた従業員は1万人と言われる。(現在の居住人口は10万人) 貴族の贅沢な暮らしがフランス革命の引き金となったが、1789年の革命時までフランスの政治の中心地」という。(サポートガイドより) 煌びやかさ! 豪華さ! 贅沢さ! そして敷地のスケールの大きさ! 何を取っても「ヴェルサイユ アズ ナンバーワン」 と思った。 宮殿内外・・あ・ら・かると写真 夕刻、パリ・ホテル着。 夕食は久しぶりの東洋料理「中華料理」であった。 それでも……フランスで飲むワインは何にでも合う…と思った。 <次回はパリの夜の散歩&パリあれこれなど> 前日 ニース、モナコ見学から始まったフランスの旅の宿泊地は「リヨン」 本来ならば、次の日はエクス・アン・プロバンス、アビニヨン、ポン・ジュ・ガールそしてリヨン観光が予定されていたのであるが、残念ながらこの1日はCUTされ、旅程は4日目から続く。 この日は、美しい自然の中に優雅な古城が点在する「ロワール地方」へバスで移動する。 途中、「ブールジェ」にて昼食。 名物エスカルゴ(写真4)にはワインが良く似合う。 リヨンを出て北上すること6時間。 その間、やまらしき山が無く、殆どが平野。牧草地やトウモロコシ畑、ブドウ畑と放牧されている、牛、馬、ヤギや農家の家々。フランスはヨーロッパでも有数の酪農国である。四季折々の花々やハーブ等が香る「フランスの庭」と呼ばれる「ロワール」に到着。 ロワール川流域には12世紀にアンジュ一家ガ領土を守る城砦として築いた80を超える城の数々が点在する。 14世紀にヴァロア家が受け継いで、次第にルネッサンス文化の影響を受けて行ったという。 「シャンボール城」:城壁だけで周囲30キロメートルの規模を誇る。(お屋敷全体で東京23区がすっぽり入る広さという)ロワール最大級の城。 狩猟館だった建物を16世紀にフランソワ1世が改修を命じて、完成したのは約140年後。フランス・ルネッサンス様式の最高傑作と言われる。周囲は森に囲まれており、〝殿様″はここに、年2・3回狩猟を楽しむために何日か滞在するだけだったと語られている。残念ながら我々が立ち寄った日は、城の前にステージが仮設されており、景観がちょっと損なわれていた。(城の左側にちょっとステージが見える) 「シュノンソー城」:1513年に着工して21年に完成した城で、16世紀から歴代女性が城主だった。アンリ2世の愛人だったディアーヌ・ド・ポワチエと正妻のカトリーヌ・ド・メディシスとの熾烈な確執が繰り広げられた城として有名。比較的規模の小さい城で、地下1階から地上3階までの主な部屋を見学。外観に比べ中は暗い感じがした。 ただし、外回りの風景はまるで「おとぎの国」のお城という感じで見学者を和ませる。 特に、城を取り巻く庭と池と森のコントラストは最高! 城の見学の前に、この地方のワイン試飲があり、「赤のスパークリングワイン」が珍しくまた美味しかった。 「アンポワーズ城」:古代ローマ時代の砦をもとに、15世紀の末にシャルル8世がイタリア・ルネッサンスの城を完成させた。 1516年、城に「モナ・リザ」を抱えたままのレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘したという。彼は様々な設備を設計して国王(フランソワ1世)のためにアンポワーズで晩年を過ごし、1519年にこの地で没したという。 外観を眺めるだけの立寄りであったが、城の前を流れるロワール川の対岸から見た景色は「城砦」という感じであった。 「城めぐり」は必ずその前に「トイレ」を澄ますこと、これが常識。少ないのです。 かくして4日目は「ロワールお城めぐり」で終わった。 この日の宿泊地は「トウール」。夕食はポークメニュウであった。 <旅は続く・・・・次回は、モン・サン・ミッシェルである>
写真NO1「ニース海岸通り」
写真NO2「モナコ公国の衛兵交代」 写真NO3「エズの鷲の巣村」 ■■■ やっと実現したフランスの旅。「シルバーウイーク」というカレンダー を企画してくれた のは、ありがたいことだがそのために旅行代金が跳ね上 がるのはありがたくないことでは あるが、連休がきっかけで(又はチャン ス)決行した人は私だけではないだろう。 『魅惑のヨーロッパ・・フランスの旅9日間』というツアーに参加した のは9月17日から 25日。成田発、エア・フランスのパリ直行便が一つの売 り物でもあった。 そのAF機がこともあろうに欠航・出発延期になろうとは・・・・。 「バードストライク」:海鳥 が飛行機にぶつかるまたはエンジンに吸い込ま れる事故・・だそうです。 このための機体修理が遅れ、本日は欠航とい う。2時間ほど空港で待たされたうえ、 本日は成田周辺のホテルで待機。 旅行会社のコメント・・。「明日夕刻に出発予定。今後のスケジュール は現在調整中 だが、最初の日の見学はカットとなる予定。二日目のスケジ ュールから開始される 見込み。最終日は変更なし。キャンセルしたい方は 全額払い戻しで受け付けします」 ・・・・やれやれどうするか。 翌日までに取り止めた人・・8名。それでも行きます・・18名。 9月18日午後6時過ぎ、やっと成田出発。飛行機は本当に大丈夫なのかと多 少不安 を感じながら・・・・・。 (故障した部分の部品を、フランスから 取り寄せて修理したとは後で聞いた話である) 現地時間午後11時過ぎパリ・ドゴール空港着。深夜に手配されたバスに 乗って、 オルリー空港近くのホテルに仮泊。寝たのは2時過ぎだった。 翌朝は5時起床。オルリー空港からニース空港に向かう。 ニース空港に到着しやっと旅行らしき雰囲気を味わいながらバスを待 つ。・・・・・・・ が、バスが来ない!のです。 結局バスがさらに遅れることがわかったので、現地ガイドに引き連れら れて、市営バス で移動。どこまでもついてない旅の出発進行となった。 旅の最初の写真(NO1)は、金持ちの多い避暑地「ニース海岸」であ る。 その後、モナコグランプリレース(モンテカルロラリー)コースやカジ ノ、モナコ公国 での衛兵交代(写真(NO2)などを見学、鷲の巣村と称さ れるエズの海岸絶壁に立て られている村(写真(NO3)などの見学があり、 そのままリヨンに向かい、第1日目は 終わりとなった。 (アクシデントはつづく・・・・次回) |
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