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2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
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<クラス対抗運動会の思い出>
 先日、ある雑誌の募集作文(短編)に応募した。未発表のものという前提なのでここに紹介することはできないが、文字数が400字内ということだったので、内容的には限られたものとなってしまった。(いずれ紹介する機会があると思うが)
 
 今から約半世紀余り前のことなので時代が大分ずれてしまっており、興味深いものは何もないと思われるが、私にとっては忘れられない青春の1ページ?でもあり、あえて取り上げてみた。
 
 昭和30年に入って、日本全体がやっと敗戦の痛手から立ち直りかけてきた頃、私は、東北・秋田県の横手市で中学生として元気に生活していました。
 私が通っていた市立第3中学校は、市内からやや郊外にあって、通学区・生徒はかなり広い地域の農村と山村から集まっていた。中には片道4キロ以上の山道や農道を、雨の日も雪の日も徒歩(自転車通学は出来なかった)で通学していた。これに対し、第1・第2中学校は市内中心部の生徒が主だった。そういう通学区だったので、同じ市内の中学校とはいえ、生徒の家庭環境は、都会の子と農村の子というほど異なっていた。私たちの学校は、どちらかというと“田舎っぺ”と言われ、今で言うといじめにも似た言い方をされることがあった。
 
 学校の規模も、各学年2クラスで、1クラス40人ほどの小さな学校であった。
これに対して他の2校は1学年10クラス程あり、マンモス中学校であった。このため、後になって第2・第3中学校は統合されて鳳中学校となっている。
 当時は、3年前に移転新築された小さな校舎には体育館もなく、校庭は地ならしされただけであったが、やがてバスケットコートとバレーボールコート(いずれも屋外コート)が設置された。
 なんとかグランド(トラック)を作りたいと、みんなで片道30分ほどの川(旭川)まで玉石を拾いに行って、それをコーナーに敷き詰めてトラックにした。今ではとても考えられないことだが、当時は誰も文句を言わず黙々と作業した。
 また、トラックの周りの通学路に桜の木を植えたのも当時の職業家庭科の時間の実習を兼ねて行ったものだった。この桜並木は50数年を過ぎた今も残っているという。
 そんな恵まれない環境だったが、先生達は明るく、生徒は誰も文句を言わず、いじめもなく、落ちこぼれもなく、余り受験戦争も経験せず、男女関係も至って純粋・純情で変な噂も全くなかった。当時の中学生は皆、オクテであったのかもしれない。みんな和気藹藹と今思うと平和でのどかな学校生活を送っていた。そんな中で唯一盛り上がるのは体育会・クラブ活動等であった。特に対外試合には燃えた。
 バスケットボール、バレーボール、駅伝競走は市内中学校の人気競技であり、全校を挙げて応援に行った。この頃、各部の応援歌までつくられたのを記憶している。対抗試合にはみんなで大声で歌った。ただ、生徒数が少なかったので、野球部と陸上部はなかった。今ならサッカーだろうが、もちろん当時はそれほど人気のある競技ではなかった。
 冬には雪が多く、体育館の無い悲しさ、室内での運動は出来ず、もっぱら雪の積もっている校庭でサッカーもどきで走り回ったり、雪合戦をしたりした他、体育の授業では2時限通しで近くの(ミニ)スキー場に行った。まだまだ物資の乏しい時代で、ろくなスキー用具を持っている人はいなくて、古い木製のスキーと竹のストック、それも兄弟同士で共用したり、借りものが多かった。
 まだまだ日本中が戦後の貧しい生活の中で、皆、必死に生きようともがいていた時代である。・・・・・・・<以下次回へ>

 
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