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2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
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ボビー・ジョーンズ 永遠のスコアメイク術(その4)

 

フォームの終わり

■ジョーンズの教え その6
自分のタイミングを見つけ、それをコースでも実践すること

上手になろうとしたら、誰でも練習場でボールを打つことだろう。当然、うまく打てるときと、ミスをするときがある。ミスをすればスイングを考えてしまうことになるが、ジョーンズはそんなことは無駄な時間を使うだけだと言い切る。

「ある程度ボールが打てるようになったら、スイングのことはあれこれ考えない。スイングはそもそもその人が生まれながらに持っているものです。だから自分のスイングでタイミング良くボールをとらえればよいだけなのです」

つまり、スイングは個性的なものであり、それを生かしてナイスショットを繰り出せばよいと説く。自分のスイングでドローが出るならそれでよし、フェードが出るならそれでよしというわけだ。

問題はスイングのタイミング。ナイスショットを打てるタイミングを身につけよ、というわけである。

「ナイスショットのタイミングは、ナイスショットしたときにわかるはず。ナイスショットをしたときのタイミングを忘れずに、このタイミングだったなと思い出して身に付けること。それがあなたのナイスショットのタイミングなのです」

つまり、ナイスショットのタイミングは人それぞれ違う。速いテンポの人もいれば、遅いテンポの人もいる。だから誰も教えることはできない。自分で身に付ける以外に方法はないのだ。

「自分のナイスショットのタイミングを練習場でつかんだら、それをコースでもできるようにする。コースでは目の前のボールはたった1回しか打てないから緊張もするだろうけど、ナイスショットのタイミングを思い出してそれを素振りで行う。何度か素振りをして、これならうまく打てると確信してからボールを打つこと。そうすれば、コースでもナイスショットが自然に打てるものです」

もちろん、コースではスイングの形や軌道などのことは一切考えない。良いスイングも悪いスイングもないのである。あるのは自分のスイングだけ。それをナイスショットが出るタイミングで行うことなのだ。

<以下、次回>

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ボビー・ジョーンズ 永遠のスコアメイク術

1930年に28歳の若さで全米・全英オープン、全米・全英アマを制し、史上初めて年間グランドスラムを達成し、引退したボビー・ジョーンズ。球聖と呼ばれた彼は34年にマスターズ・トーナメントを創設した。筆者はジョーンズの生地を訪ね、彼の孫や彼のキャディーをした人、また研究者らに取材、多くの逸話を聞き出した。その話には、ジョーンズが天才と呼ばれながら長い間メジャートーナメントに勝てなかったことや、ライバルのウォルター・へーゲンに辛酸をなめさせられたことなどを、精神的、技術的にレベルアップして乗り越えてきたことがわかった。そして、それらの事柄は、多くの悩めるアマチュアゴルファーにとっての福音になっている。今回はジョーンズがコースで悔いなくラウンドするために会得した事柄をえりすぐって紹介してみたい。(日本経済新聞出版社「書斎のゴルフ VOL.44」から)

■ジョーンズの教え その4

べストスコアを出したかったら、ゴールを考えずに目の前の1打に集中する

 

ジョーンズは14歳のときに74のベストスコアを出した。その後、彼はこのスコアを破ろうと懸命にプレーするが、2年間も破ることができなかった。

2年の間に最終2ホールをパーで回れば74どころか70も切れると思ったことが最低でも4回はあったのです。しかし、あがってみればベストスコアを更新することはできなかった。ベストスコアで回ることは優勝することと同じくらい難しいものだと知りました」

なぜジョーンズはベストスコアを更新できなかったのか。それはベストスコアが出せると思った途端、スコアを意識してプレッシャーがかかってしまったからである。

であれば、スコアは意識しないこと。ベストスコアが出ると思ったときはスコアのことは忘れ、目の前の1打に集中することだとジョーンズは悟ったのである。

このことができるようになって、ジョーンズはベストスコアを更新でき、多くの大会に優勝できるようにもなった。

「良いスコアをキープすることは、悪いスコアを挽回することよりも難しい。それは試合で首位を守り通すことが難しく、逆転することのほうが精神的に楽であることと同じである」

首位にいれば逃げ切りたいと自分を縛り付けてしまう。首位を追いかけるほうは、負けてもともとと開き直ってプレーできる。

人間には心がある。最終ゴールを思い描いてしまうのは当然のこと。ベストスコアというゴール、優勝というゴール。誰もが良いゴールを夢見る。しかし、ゴールを夢見た瞬間にはかない夢と消えてしまうのである。

我々アマチュアには100の壁があり、90の壁、80の壁があるといわれる。スコアを意識した途端に、壁に阻まれる。乗り越えられずに何年もかかってしまうことがある。しかし、壁を乗り越えたときは往々にしてスコアを意識せずにプレーしたときである。

ならば、常にスコアのことは意識しない。目の前の1打だけに集中することである。

■ジョーンズの教え その5
良いスコアを維持するにはそれを続けられると信じること

 

アベレージゴルファーがある日、ずっとパーが取れたりする。1つ取れたと思ったら、次も、さらにその次も取れたりする。そんなとき、このような良いことはそうそう続くわけがないと思ってしまう。そして、そう思った瞬間に崩れ始めてしまうのだ。

それは上手な人でもバーディーが続けば、同じように思ってしまう。そんな良いことはそうは続かないと。つまり、良いことが起き続けるとなぜか不安になるのである。それはゴルファーのさがであろうか。ジョーンズも同様だった。

ところが、ジョーンズのライバル、ウォルター・へーゲンは違っていた。

「へーゲンは連続バーディーを出したあと、さらにバーディーが取れると思っている。そして、本当にバーディーを取ってしまう。それが彼の強さなのです」

へーゲンはジョーンズに比べてスイングもショットも良くなかったが、あがってみたらバーディーを奪い、優勝してしまう。うまくはないが、とても強い選手だった。

へーゲンのゴルフを見て、ジョーンズは思い知る。

「良いゴルフをしているときに、悪いことを考える必要などどこにもないはずだ。ミスが出るのではないかなど不安に駆られるのは、心が弱いからに他ならない。へーゲンのように心の強い者は、良いことは次も続くはずと思える。本当はそう思えて当然なのです」

ジョーンズはヘーゲンの強い心を知って以来、良いことは続くはずだと思えるようになった。それは、自分を疑うよりも信じることが大事だということがわかったからである。

「ゴルフでは自分だけが頼りである。そんな自分を自分が信じてあげられなくてどうする。ひたすら自分を信じること。信じ切ることが最も大事なことなのです」

とはいえ、ミスの多いアベレージゴルファーはそんなふうにはとても思えないだろう。しかし、ジョーンズなら次のように言うに違いない。

「自分を信じてあげれば、ミスが少なくなることは間違いありません。自分を疑う気持ちが大きなミスを招くのですから」

<以下 次回>

 

 

ボビー・ジョーンズ 永遠のスコアメイク術

ジョーンズの教え その3
最初に叩いたときこそミスを使い果たしたと思え

謙虚なゴルフをすることが大事だといっても、スタートホールから叩いてしまうとそうした気持ちも吹っ飛んでしまいやすい。

ジョーンズは言う。

「出だしでつまずいてしまうと、忍耐強くチャンスを待つということをすっかり忘れてしまいかねない。失ったストロークをすぐに取り返したいと躍起になってしまう。その結果、自分の実力以上のことをやろうとする。無謀なプレーをし始めてしまうのだ。その結果はますますミスを重ね、取り返しのつかないことになってしまう」

ついには気持ちがぶち切れて、捨て鉢になり、ベストスコアを望んでいたのに、ワーストスコアを喫してしまうことになってしまうのである。

「こうしたことになってしまったゴルファーを何度も目撃しているのに、自分を振り返るといっこうに教訓として受け止めておらず、自らもあれよあれよという間にそうした自制心のないゴルフになってしまう。わかっていても止められないからゴルフというスポーツは恐ろしい。どんどん泥沼にはまってしまうのがゴルフなのである」

だからこそ、最初が悪かったときにどう対処したらよいかをゲームが始まる前に考えておく必要がある。良いゴルフばかり望んでプレーをスタートするから茫然(ぼうぜん)自失してしまうのだ。

「最初が悪かったときは、まだまだ先は長いと考えておくことです。だから慌てない。こつこつとプレーしてどこかで悪い流れを止め、徐々に良い流れにしていくことです」

慌てず騒がず、落胆せず、粘り強くプレーする。他に方法はないのであり、ゴルフは18ホールプレーし続けなくてはならないのだ。

「最初に叩いたら、もうミスは使い切ってしまったと思うこと。もうこれ以上の悪いことは起きないと開き直ることです。そして、最初に叩くほうが最後に叩くより、よっぽど結果が良くなるというゴルフの不思議な法則を信じることです」

最初に叩くとがっかりするのは確か。しかし、それを忘れて楽しくゴルフをやることなのだ。

(以下、次回)

 

 ゴルフで、球聖と呼ばれ、28歳の若さで史上初めて年間グランドスラムを達成し、引退した
 ボビー・ジョーンズの逸話があったので紹介する。

ボビー・ジョーンズ 永遠のスコアメイク術(その1)

1930年に28歳の若さで全米・全英オープン、全米・全英アマを制し、史上初めて年間グランドスラムを達成し、引退したボビー・ジョーンズ。球聖と呼ばれた彼は34年にマスターズ・トーナメントを創設した。筆者はジョーンズの生地を訪ね、彼の孫や彼のキャディーをした人、また研究者らに取材、多くの逸話を聞き出した。その話には、ジョーンズが天才と呼ばれながら長い間メジャートーナメントに勝てなかったことや、ライバルのウォルター・へーゲンに辛酸をなめさせられたことなどを、精神的、技術的にレベルアップして乗り越えてきたことがわかった。そして、それらの事柄は、多くの悩めるアマチュアゴルファーにとっての福音になっている。今回はジョーンズがコースで悔いなくラウンドするために会得した事柄をえりすぐって紹介してみたい。(日本経済新聞出版社「書斎のゴルフ VOL.44」から


ジョーンズの教え その1
ゴルフは「オールドマンパー」が相手、彼と長い旅をする忍耐が必要なのだ

ジョーンズは02年、米ジョージア州アトランタ郊外にあるイーストレイクGCの脇にあった家に生まれ、5歳のときから庭でゴルフ遊びをするようになった。

成長するやコースでプレーするようになり、地元ジョージア州の大会で大人たちを破って優勝するなど活躍、14歳で初めてメジャートーナメント、全米アマに出場した。ペンシルベニア州メリオンGCで開催されたが、天才少年の名は大会前からとどろき渡っていた。

この大会でジョーンズは準決勝で敗れてしまったが、近いうちには勝利をものにできるだろうと思われた。ところが、それから7年間もメジャー大会に破れ続けたのだ。

「彼は最高のショットメーカーだが、勝つことはできない」

そう揶揄(やゆ)されたのはジョーンズが安全なゴルフを嫌い、かんしゃく持ちでもあったからだ。19歳で出場した全英オープンでは大叩(たた)きの末にスコアカードを破り捨てて棄権、同年の全米アマではミスショットからクラブを叩きつけて、そのクラブが女性に当たり負傷させている。出場停止処分となったジョーンズは大いに反省、ゴルフには忍耐が必要だと痛感するのである。

「ゴルフとは我慢することだ」

21歳になった23年、インウッドCCで行われた全米オープンにようやく優勝、徐々に戦うべき相手が誰だかわかってくる。

「戦う相手は『オールドマンパー』である。常にパーであがれるゴルフ名人。その名人、オールドマンパーと長い戦いの旅をしていく忍耐が必要なのだ」

こうしてジョーンズはパーを基準としたゴルフを展開、破竹の勢いで勝利をものにしていく。全米オープン4勝、全米アマ5勝、全英オープン3勝、全英アマ1勝。30年、前人未到のグラウンドスラムを達成し、28歳の若さで引退してしまう。

ジョーンズにとってのオールドマンパーは、アベレージゴルファーにとっては「オールドマンボギー」である。ボギーおじさんを相手に忍耐強くプレーし、勝ち抜くことが肝心なのである。

ジョーンズの教え その2
己の実力を知り、謙虚に忍耐強くプレーする


いくら上手なプレーヤーでも完璧なショットを打つことはほとんどない。誤差は必ずあるといってよい。

ジョーンズは言う。

「子供の頃に上手な大人を負かしたからといって、周囲は私を天才少年のようにたたえたが、まったくそんなことはなかった。どんなに上手なゴルファーでも、ゴルフというスポーツには完璧はあり得ない。ミスはするし、完璧に思えたショットでも誤差は出る。つまり天才などゴルフではあり得ないし、そんなことを思ったら不遜である」

ジョーンズは21歳になるまでメジャータイトルを手にできなかったことでそのことを痛感するのだ。

「ゴルフでは自然を相手にするのだから、突然突風が吹いてとんでもないところにボールが飛んでしまうことだってある。ナイスショットがディボット跡の中にすっぽりとはまり込んでしまうこともある。ラインに乗ったパットがスパイクマークによって外れてしまうことだってある」

天才だったとしても、予期しえないどうしようもないことが起きるのがゴルフなのである。天才も天災に勝ることはできない。

「ゴルフでは完璧はないのだから、謙虚にプレーすることである。つまり、安全にプレーすることが一番なのだ。例えば、ドッグレッグホールではショートカットは狙わない。バンカーのすぐ上にあるピンは狙わない。一打一打、大事に丁寧にプレーする。ストロークプレーであれば、大叩きは簡単には取り返せないのだから、なおさら慎重にプレーすることである」

さらにゴルフでは謙虚にプレーする意味が問われる。

自分の実力を思い知り、実力以上のプレーはしないことが肝心だ。実力以上のプレーは、無謀なプレーになる。たまに成功することがあったとしても常に成功することはありえない。だから実力相応のプレーを心がける。そうして忍耐強くプレーを続け、チャンスが巡ってきたときだけ果敢に攻める。バーディーを狙いにいくのだ

ゴルフとは「慎重でありながらも果敢であれ!」なのである。

<以下、次回>

 無念のモスクワから4年 世界の山下、苦難を克服す〘柔道男子


 1980年のモスクワ大会を日本はボイコット。金メダルが確実視されていた柔道の山下泰裕は、記者会見の席で泣いた。
 それからの山下は世界で無敵を誇った。81年の世界選手権では95kg超級と無差別級の2階級制覇。83年の世界選手権でも95kgで優勝、「世界の山下」は史上最強の柔道家とも称えられた。山下に残されたもの、それは五輪の金メダル獲得だけだった。

 そして迎えた84年のロスアンゼルス大会。モスクワ大会の柔道代表だった選手で、代表として生き残ったのは山下ただ一人だった。しかし、ロスアンゼルスで山下は柔道家として最大の危機を迎える。
 2回戦のシュナーベル(西ドイツ・当時)との対戦で、山下は軸足の右ふくらはぎに肉離れを起こしてしまう。この試合は送り襟締めで勝利をおさめこそしたが、試合が終わってけがを悟られまいと平然と歩いたつもりが、脚を引きずっているように見えた。

 準決勝で不安は的中する。フランスのデル・コロンボは開始30秒、大外刈りで山下から効果を奪う。絶体絶命の大ピンチ。しかし山下はここから不屈の闘志を見せる。逃げに入った相手に対して技を繰り出し、大外刈りからの横四方固めの合わせ技で逆転、金メダルまであと1勝と迫った。

 迎えた決勝の相手はラシュワン(エジプト)。試合開始早々からラシュワンは積極的な攻めに出るが、冷静な山下は落ち着いて対応、相手がバランスを崩した瞬間を逃さず、抑え込みへとなだれ込む。1本勝ちまでの30秒間は、金メダルへのカウントダウン。1本が宣告され、山下は顔をくしゃくしゃにした。ボイコットの悪夢を乗り越え、山下は念願の金メダルを手にした。

 世界の山下は85年、引退。現在は日本オリンピック委員会(JOC)の会長として活躍中である。(資料:「AGORA November 2019」文:生島 淳氏)

<あの時の記憶>
 モスクワオリンピックをボイコット(アメリカに同調した結果だが)したとき、主な代表選手は皆涙を流して悔しがっていた。山下選手、レスリングの高田裕司選手、陸上・マラソンの瀬古、宗兄弟選手等々、出たら金メダル確実と期待されていた選手達だ。オリンピックフアンの私も、選手の心情に涙した一人である。

 



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