2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
<1月2日の楽しみ・・箱根駅伝を見る>
かなり以前(30年位前?)には、第4区・湘南海岸沿いで見ていたが、最近ではほとんど第5区で、小涌園前か箱根湯本周辺で見ている。第4区のように平地を走っている選手は、あっという間に通り過ぎる。それはそれなりにスピードが感じられていいが、やっぱり箱根駅伝は第5区が面白い。箱根の山道を約18キロも喘ぎながら登る選手の姿は、頼もしくもあり、思わず“頑張れ!”と声をかけたくなるし、見ている方も元気がもらえる。 何十年も見ていると、この区間のどこがどうなっていて、どれだけ大変か、走り方の難しさはそれなりに理解しているつもりだ。ちなみに、私の認識している第5区はこうだ。 【第5区の中継点・小田原の某かまぼこ店前から箱根湯本までは、だらだらのゆるい登り坂が約5キロ余続く。この間は、これからの箱根・山登りの足慣らしとなる。 湯本を過ぎると徐々に坂道は傾斜を増し、九十九折り(湯元~塔の沢~大平台~宮ノ下~小涌園~芦之湯まで)の山道を約13キロ、標高差約800メートルをひたすら登る。 芦之湯で険しい登り坂が終わると、やや平らな道となるが、選手にはこれまでの急登イメージがあるため、この平らな道は下り坂のように見えるらしい。登と下りでは、使う筋肉が異なるが、登りきっていきなり下り道へのギアチェンジ。このギアチェンジがうまくできずにバテてしまったり、思ったようにスピードに乗れなくて・・・というケースはこれまでも何回かあった。そこから芦ノ湖のゴールまで約5キロの下り道。ここで逆転というケースもよくある。 第5区は、山登りに強いだけではなく、登りきってからの下り5キロも重要な勝負どころとなる。(車で言うと,2速で登ってきたものを、徐々にギアチェンジしながら5速のトップスピードに持っていくようなもの) そして今年は、これに加えて、強風と体温の低下をいかに克服するかという課題もあった。】 この日、関東地方は朝から風が強く、晴れてはいるが体感温度は相当低くなり選手にはかなり堪えると思われた。特に湘南海岸から箱根路は強烈な風が吹き荒れていた。 私は箱根湯本から約500メートルほど小田原寄りの、5区小田原中継所からちょうど5キロ地点の早川の土手沿いで待っていた。早川越しに吹き上げてくる風は強風で、推定風速10~15メートル程と思われた。風向きは、選手の左前方から、しかも下から吹き上げてくる向かい風であった。 ちょうど5キロ地点の標識の前にいたので、通り過ぎる各校の伴走車からは、申し合わせたように、それぞれ自校の選手にラップタイムを知らせる。 「よーし、5キロ16分40秒だ。トップが16分25秒だからいいペースだぞ!」といった塩梅に、まずは入りの5キロのペースを教える。 その5キロをトップで通過したのは、東洋大で2位との差は、1分30秒ほどあったようだ。しかし、この日の箱根の上りは難しいと思われた。それは、走っている選手のほとんどが、ランニングシャツと短パンである。(中にはアームカバーをしていたり、手袋をしている選手もいたが・・・) 「ちょっと寒すぎるのではないか?」と素人の私ですらそう感じた。そこでは陽がさしていたが、それにしてもあまりにも風が強すぎていたから・・・。そして、この先、ほとんど陽がささない箱根の山中で低温と強風に晒されたら・・・体感温度が心配と思った。 案の定。山では波乱があった。『低体温症』により2人の選手(中大、城西大)が倒れるというアクシデントが発生した。しかし、私に言わせると、あれはある程度予想されることではなかったか? と思う。 標高差860メートルを上ると、何にもしなくても下界より5~6度は気温が下がる。加えてのあの強風。風速1メートルにつき体感温度は約1度下がる。 仮に、標高差の気温低下(5度として)+風速10メートルによる体感温度低下(10度)とすれば、芦之湯辺りまで、氷点下10~15度の世界を短パン・ランニングシャツで1時間余り晒し続けてきたことになる。そして山登りの疲労も溜まっているはず。何と残酷な仕打ちですか! 私は、倒れた選手たちの体力不足とか走力不足は責められないと思う。あれは、監督をはじめ、コーチ等のスタッフやサポート達の配慮不足(用意不足?)及び作戦ミスではないかと思う。また、寒さだけでなく、空気が乾燥していたので適切な水分補給がなされていたかどうか? にも疑問が残る。 今年の第5区では、日体大の服部選手が山登りもさることながら、登り切ってからのギアチェンジがスムースに行ってスピードに乗り、芦之湯からの残りの5キロ余りを快走、2位以下を2分半余り引き離し、総合優勝を不動のものとした(まさに最優秀選手となった価値がある)。 日体大が勝利したのは、キャプテン・服部選手の快走もあるが、もうひとつ、屈辱の予選会から勝ち上がり、3年生をキャプテンに据えて、4年生がこれを良くバックアップしたというチームワークが、30年振りの勝利となったように思う。 PR
<年末・年始あれこれ・・その1>
年末・年始は箱根・湯本で温浴と駅伝三昧でした。 大晦日恒例(?)の「紅白・・・」はあまり興味がなく、何を見るでもなくチャンネルを回したら、「PERFUME・・」という番組に目を引かれました。 私はあんまりよく知らない女子グループ3人組で、始めての海外公演、それもアジアンツアーを収録したものでした。それは中国、韓国という、現在、政治的に日本とギクシャクしている地での公演でしたので、大変な不安と緊張の中でのステージのようでした。その辺りの状況、雰囲気とプレッシャーと緊張感が映像から生々しく感じられました。思わず「しっかりやってくれ」と応援したくなりました。 結果は、中国でも韓国でも、それぞれ若者の心をしっかり捉えて、大盛況、大拍手の公演となりました。 今、両国とは、領土問題等でそれぞれ思想、文化、政治、歴史認識の相違などにより国同士の関係がギクシャクしていますが、こと音楽・芸術の世界では、自分たち(若者)の求めている世界で共鳴できるのであれば、(大人の世界のギクシャクは関係なく)好きなものは好き、いいものはいいと言う若者の正直な反応のように見えました。 <元日恒例・・実業団駅伝> 元旦駅伝は、実業団(社会人)男子の大会だ、なぜ元旦なのか、なぜ(空っ風の強い)群馬でやるのか分からないが・・・、選手もスタッフも大会関係者は元旦からご苦労様と言いたい。 実業団の選手は、高校や大学で活躍した選手が社会人となってどれだけ強くなったか、オリンピック代表選手はどんな走りを見せてくれるか、ベテランがどう絡んでくるか、等々、各区にそれぞれ聞いたことのある選手が入れ替わり立ち替り出場してきて嫌が上にも盛り上がる。(と私は思っている) 今年は、コニカミノルタが中盤から抜け出して圧勝した。 ・・・来年は、名門「エスビー食品」チームが「DeNA」として復活するとのこと。また楽しみが増えそうである。
<脳の健康学>
(サントリー「美感遊創」vol.123 [脳を活性化するアクティブライフ]より) 【何歳からでも始められる脳の育て方】 『若々しい脳を維持するために大切なのは、心も体もアクティブにしておくこと。活動的な毎日を過ごしている人は、年齢を重ねても、新しい脳細胞が育つと言われています。 いつまでも前向きに人生を楽しむために、知っておきたい“脳を活性化するメカニズム”について、抗加齢医学の専門ドクター[川田浩志]先生(医学博士・東海大医学部准教授)のはなし。 <筋肉と一緒に脳も縮ませないために> 「体は使わなければ、年齢とともに老化します。体の一部である脳も、例外ではありません。じっとして、あまり体を動かさないような生活をしていると少しづつ筋肉が落ちて行くように、脳の神経回路の働きも低下して、脳そのものが萎縮して行きます。しかし、年齢を重ねても、筋肉を刺激していれば、筋力の低下を防ぐことができるように、脳にも刺激を与え続けることで活性化できます」 <体を動かした後に、脳は活性化する> 「脳を育てるためには、日常生活の中で少しでも体を使い動かすことです。特に運動で体を動かしていれば、脳由来神経栄養因子(BDNF)という脳の神経細胞を育てる蛋白質が合成されることが分かっています」 <まずは、マイペースで楽しく> 「まずは、ウオーキングやサイクリングなどをマイペースで行うことをお勧めします。ウオーキングは、運動が苦手な人でも生活に取り入れやすく、続けることで脳の若々しさを取り戻すことが期待できます。 50歳以上の人々が50分のウオーキングを週3回続けたら、認知症になりにくかったという調査結果もあります。体を動かせば、脳も働きます。 例えば、細かい手作業に挑戦し続けていると、手先を器用に動かすための脳の部分が育ちますし、冒険心に心躍らせて様々なルートをウオーキングすれば、空間認知能力が発達して土地勘がさえてきます。ですから、日頃から体を動かす時間をもち、いつも自分らしい人生観をもって生活することは、脳の為にとても大切なこと。そんな日々の積み重ねこそ、明日をより一層実り豊かにする処方箋と言えるのではないでしょうか」 <マイペースで楽しめるウオーキング習慣を> 「毎日なら15分~30分、1週間の合計では90分程度から始め、楽しくマイペースで続けて行きましょう。 (こんな工夫で継続を) ・一人よりも仲間同士で楽しく ・歩数計で記録をつける ・自然の中で気持ちよく ・歩くコースを時々変える ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』 ≪私は、この記事を読んで・・・これまで自分がやってきたことが間違いでなかったと自負している。(わがままな人生との批判もあるが・・・) ・今もほとんど毎日、現役の人達と同じように通勤し、その途上で様々な出会いや世の中の動きに合わせ、時には満員電車に揉まれながらそれなりに体も脳も刺激を受けている。 ・仕事上でも、社外に積極的に出かけては刺激を頂いてくる。ときには、仕事仲間の悩みを聞いたり、一緒に考えたり議論したり、時には会食(酒宴?)したり、その弾みで趣味のゴルフに発展したりと、どんどん付き合いが拡がる。多少の苦しみもあるが楽しみもまた多い。 ・若い人たちの職場にいると、若い人たちが何を考え、悩み、苦しんでいるかを知ることも大切だ。その中から年配者としての存在理由が見えてくる。いまさら、若い人たちと張り合うつもりはないが、年配者(先輩)としてバックアップしてあげたいと思う。それもまたいい励みになる。 ・大した仕事もしていないが、それだけではと、時には専門誌にもチャレンジし、情報過多とも言える中でもなるべく本を読んだり、作文したり、それだけではと社外の講演会やセミナーに参加して、耳学問にも精を出す。 ・3年前のある時期、久し振りに受験勉強もした。かなりハードなスケジュールであったが、それなりに充実感があった。しかし、この時ほど自分の脳が衰えていることを知らされたことはない。何といっても、記憶力と理解力の衰えに 悩まされたものである。それでも、いい刺激になったと今は満足している。 ・月2~3回のゴルフ参加もいい。ゴルフも昔(現役時代)は、仕事関連の人達との付き合いが主であったが、今は、会社を離れた(仕事以外)、いわば自由人・趣味会と言った集まりである。なによりも毎回メンバーが異なるのが新鮮だ。そして、たまには昔の仲間とやるのも楽しい。 ・まだまだ、やりたいことがいっぱいあって・・・。 「人生は愉しむためにある」 と言っている人もいる。人間は仕事ばかりではいけない。遊ばなくては幅や深みのある人になれないという。この意見も賛成だ。 自分のやりたいことをいっぱい持っていて、それを少しづつやり続けることが出来れば、それが、健康維持、脳の活性化にもつながると確信しているが・・・≫
<「島 秀雄 in 大連」を読んで>
(2012年 12月21日 読売新聞夕刊「ちきゅう 時の散歩」より) 島 秀雄:大阪生まれ。東京帝国大機械工学科(現・東大工学部)を卒業 し、1925年に鉄道省入り。デゴイチの愛称で知られる蒸気機関車D51の設計者で、55年からは技師長として東海道新幹線の設計にあたる。宇宙開発事業団の初代理事長も務めた。父安次郎、次男隆も鉄道技師で3代にわたり高速鉄道開発に携わった。 私は、ここに登場する“島 秀雄”氏をある時期まで知らなかった。 今から10年以上も前のことであるが、前前職の仕事の関係でお世話になったある先生(弁護士、故人)のご自宅に遊びに行った時に、奥様から[父の記念に作りました]と頂いたオレンジカードは、島 秀雄様が新幹線(初期の頃の車両でした)をバックにされたものでした。あまり詳しい経歴も聞かないまま、記念のオレンジカードはずっと私の机の奥深くしまいこんだままとなっておりました。(恥ずかしながら、島 秀雄様は鉄道関係に功績のあった方程度の認識でした) 2,012年12月21日付読売新聞・夕刊に掲載された記事を見て、あらためて氏の偉大な功績に心を打たれました。・・・自分が昔から利用させて頂いてきたD51の蒸気機関車と東海道新幹線の生みの親を知らなかったなんて・・・恥ずかしい思いと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 私は、この記事を読んですぐに机の奥深くしまいこんであった、オレンジカードを取り出して島様の写真にお詫びしました。 以下は、その記事の抜粋です。 【日本占領時代の1934~43年、中国東北部には、当時としては驚異的な超特急『あじあ号』が走っていた。 「新幹線の生みの親」と称される鉄道技師、島秀雄は戦前、終着駅があった大連を2度訪れ、広野を疾走するあじあ号の雄姿を目に焼き付けた。 ハルビン―大連間の900キロを12時間半で結んだあじあ号は最高時速130キロ。東洋一とうたわれた。当時としては斬新な流線形の蒸気機関車「パシナ」が主に牽引。客車は冷暖房完備。食堂車ではロシア人ウエイトレスが特製カクテルをサービスする夢の豪華列車だった。 島が大連を視察したのは、39年と40年。当時、東京―大阪間を4時間半で結ぶ[弾丸列車計画]に取り組んでいた。あじあ号を運行していた日本の国策会社[南満州鉄道](満鉄)の手配で、大連―長春間に乗り、「我々の計画なら、時速200キロも不可能ではない」との感触を得たという。 12両製造されたとされるパシナの1両が、大連駅近くの倉庫に保存されていた。戦後、中国政府に接収され、79年まで現役として活躍したという。(中略) 島は帰国後、あじあ号をけん引した蒸気機関車「パシナ」によく似たデザインの蒸気機関車を設計した。弾丸列車計画は敗戦で頓挫したが、大連視察の経験は、戦後、国鉄技師長となった島らによる新幹線開発へつながったと言える。(中略) 日本占領期に作られた大連駅は、上野駅をモデルにしたとされる。乗客は2階を通ってホームへ下り、到着客は地下道を通って1階から駅外へ出るという、当時としては先進的な立体構造。島が利用した時とほぼ変わらぬ姿の駅に12月1日、真新しい流線型の列車が乗り入れた。あじあ号と同じ大連―ハルビンを結ぶ高速鉄道が開通したのだ。最高時速350キロで所要時間は最短3時間半。 満鉄には『侵略』という正当化できない歴史がつきまとう。しかし、鉄道を愛する人々の夢は、80年の時空を経て、どこかでつながっているように思えた。 (文 竹内誠一郎)】 ≪島 秀雄様の記念のオレンジカードは我が家の宝物として保存しておきたいと思います≫ |
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