2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
<仙山線での不安なひと時・・・>
『山形駅に引き返します。着いたら代行タクシーの手配をします』というが、 どういうことだろう、と半信半疑の時間が過ぎる。まだ引き返しの発車がないままに、みなさんは立ちすくす社内の中で、若い人達は話し合っているようだ。・・・・山形から何とか仙台まで(バスで)行けば、そこから東北新幹線で当日中に、又は、最悪次の日でも早朝に仙台を出発できれば・・・・・等と考えてスマホで情報をトライしていた。私は、半分あきらめて、山形市内のホテル予約をトライしてもらったが、ことごとく満員であった。そんな中で、同じボックス席に座っていた3人組の旅行者の会話を聞いていたら、「空いているホテルで3部屋あるらしい」との会話が聞こえてきた。彼らの話に入りこんで、ホテル名を教えてもらい早速Telしてもらうと、予約GET!・・・・私は最悪ここに宿泊することを覚悟した。 同行の若い4人は、ともかく山形駅まで行ってみて、バス便を探すか、タクシーの事情を確認することとした。・・・・私は、夜のバス、タクシー乗車にはあまり乗り気がしなかった。こんな雪道の山越えは、リスクが多すぎると思えたし、だいいちいつ乗れるかも不明の状況であったし・・・。 山形駅は構内も、バス乗り場付近もごった返していた。そんな中で、ともかく本日のJR乗車券で明日も乗れるかどうかの確認が先決であった。その確認(明日も乗車OK)を確認できた時点で、私達、宿泊希望組(私+他の3人グループ)は仙台行きをあきらめて宿泊することを決めた。 同行の4人はあくまで仙台行きを待つとのことだったので、止むなく駅前で別れた。別れる際に、「どうしても乗れなかったときは、私が泊まるホテルに来て下さい」と言って止むなくお別れした。 その後連絡を取ったら、21:47分にUさんからCメールが届いて、「無事タクシーに乗れて、仙台での宿泊ホテルも予約できた」旨の報に、ホッと胸をなでおろした。 翌朝、彼等は仙台発の1番電車で、8時半に東京についた旨の連絡があった。さすが若い人達。前夜の粘りと行動の早さに感心させられた。 <シニア・宿泊組の一夜の話> 私達、山形残留・シニア組は、その夜、山形駅から徒歩15分余りの“アルファーワン”というホテルに向かった。歩道もすっかり圧雪となっており、普通の皮靴では滑る。彼ら3人は装備も良く、靴の底にワンタッチで装着できる滑り止めをもっておりました。さすが旅慣れた人達でした。10年間の“冬道ブランク”は自分が時代遅れになっていることを知らされました。 それでも、彼等はスキー用の防寒具をすでに宅急便で送ってしまったとかで、やや軽装備となっていたようで、反省しておりましたが・・・。 ホテルに行く途中で、コンビニに寄り、各自夕食やら、つまみやらを思い思いに調達してホテルに入りました。 同じホテルに泊まることになった4人は、夕食を兼ねて一杯飲みましょうということになって、どなたかの部屋に集合。それぞれ余り物やら、買い足したものやら、おにぎり、弁当、お酒の残り物等などを持ち寄って集合。 それぞれ自己紹介から、自分たちの活動内容やら、人生観やら、家庭の諸事情等々、「無題」の懇親会は夜11時過ぎまで続く。 <この日の出会いメンバー> Aさん:50代後半?、現役続行中。ユーモアがあって多少とぼけもあってグループの人気者。時折厳しくなるときがあって(カッとなるのかしら?)、 何かエピソードもあったらしく、特に交渉事は控えめにしているとか・・・・。 Bさん:とっても明るくて、すべてポジテブに考え、行動するという。旦那さんを亡くしたが、子供さんを立派に育て上げた頑張り屋さん。ともかく弁爽やか。ちょっと高いトーンの声と早口で周りを退屈させない。このグループのムードメーカー的存在のようでした。 Cさん:西伊豆から参加のお母さん。とってもバイタリティがあって、キビキビと行動する。今回のようなアクシデント等があった場面では、頼もしい存在。ホテルの空き部屋情報も、娘さんと連絡を取り、ネット情報を取り寄せた「殊勲者」だ。 3人3様の個性をもった頼もしい・楽しい人達でした。そんな中に無理やり入れて頂いた、現代の”一期一会”とはこんなことをいうのでしょうか? とても愉快な時間を過ごさせて頂きました。 『袖すり合うも多生の縁』 『旅は道連れ世は情け』 『一期一会』 いろんな例えがありますが、それぞれに当たるような気がしました。 2月25日(月) 雪も上がって快晴。朝8時10分、やや遅れて到着の山形新幹線は、山形駅を出発。 それぞれの思い出話やエピソード等の話が尽きることなく、やがて東京駅に定刻11時に到着しました。 『縁があったら、また会いましょう』と皆さんとお別れしました。 <10年振りのスキー行・山形蔵王は、盛り沢山の思い出旅行となりました。 ・昔取った杵柄(スキー)がまだ通用することが確認できました。 ・蔵王温泉のおばあちゃんの元気な姿に再会できました。 ・ハプニングには明るく・楽しい雰囲気の人々との出会いがありました。 帰り際に心配をかけた家族・知人の皆さんに感謝します。 なによりも、“私をスキーにつれてって”くれた会社の『雪部』の皆さん、そして、旅先で出会ったシニアグループの皆さん、本当にありがとう!>
<とんだハプニングが待ち構えていました>
≪10年振りのスキーに行って来ました≫・・・その1
・71歳になって・・今更スキーなんてと思っていました。というよりも自分ではそんな考えもなく、考えたことすらなかったこの10年間でしたが・・・。 きっかけは、会社の“雪部”の皆さんからの誘いでした。そういえば昨年も話があったのですが、あまり乗り気ではなくまた、足があまり調子がよくなくてお断りしていました。足の調子はその後も一進一退で、整形外科に週1回程度通って、磁気と電気治療をしておりますが、残念ながら気休め程度にしかなりません。 そんなある日。確か昨年の12月頃のこと。今年も又お誘いがあって・・そのプランの中の一つに、2月の『山形・蔵王』遠征がありました。「蔵王か・・・行ってみたいな-」と心を動かされました。そして、蔵王なら行ってももいいな、と間もなく決心したのです。 ・私が20歳のとき、先輩に連れて行ったもらった本格的なスキー場こそ、 【蔵王】なのです。それ以前・・少年の頃・中学生までは、実家が雪国・横手だった頃、付近のスキー場で見よう見まねで滑っていたものである。 泊まりがけで本格的なスキー場に行くなんてことは考えもしなかった頃だから、始めてみる本格的なスキー場「蔵王」はあまりにも強烈な印象があった。 本格的なスキー場とはこんな華やかな世界・楽しい世界なのかと驚かされた。・・・それはまるで、物心がついた子供が、始めてみる・体験する驚きの世界に目をキラキラ輝かせる、そんな新鮮さと感動があったような気がします・・。 ・それ以来ほぼ30年。蔵王には毎年通い続けました。最初の頃は、電車・バスで通いましたが、東京に居を構えてからは、スキーバスだったり、自家用車だったり、あまり列車を利用することがなくなりました。ときには、名古屋から車で行ったり、甲府から遠征したりということもありました。そんな蔵王遠征も、50歳頃で終わりました。スキーはその後、数回行きましたが私にとっては、スキーの歴史は蔵王の歴史のようなものであったといえます。 ・遠征参加が決まって・・・不安と期待とがありました。 その①:左足が大丈夫だろうか? 痛みが更に酷くならないか? その②:もう全盛期の滑りができないだろうが、どうか? その③:最近のスキー板は“カービング”が主流だが、対応できるだろうか? その④:その後ゲレンデはどう変わっているだろうか? その⑤:昔お世話になった民宿のおばあちゃんは元気だろうか? その⑥:天気は?(強い低気圧が来ているというが・・・どうか?) ・2月22日(金)18時08分、定刻に東京駅を出発した。特にトラブルもなくほぼ定時に山形駅に到着。後続のTUN氏を待って、22時15分のバスに乗る。蔵王温泉には23時到着。小雪が降り続いていてバス停で20センチ程度降り積もっていたが、間もなくホテルの迎えバスに乗って23時15分ホテル着。さっそく温泉に入って、その後軽くビールを飲みながら談笑して、就寝は午前1時頃。 ・2月23日(土)天候:雪。7時半朝食。8時半に宿を出てレンタルスキー店に案内してもらう。その前がロープウエー乗り場なので、運行状況を聞きに行くと、まだ時間が早いせいか混んでいない。ということでこのままロープウエーで一気に頂上まで行った方がいいという判断で、皆を集めて頂上行きに乗る。この間30分位。最盛期は2~3時間待ちが当たり前のところだが、時間が早くて空いているのか?、それとも昔ほど客がいないのか?・・・結局双方であった。 中間駅でもほとんど待ちがなく地蔵岳の頂上に到着した。天気が良ければここから名物の“樹氷群”が見渡せるのだが、あいにくの吹雪。気温は、マイナス14度+体感温度は推定5~6度、-20度くらいのザンゲ坂を下る。 数メートル先しか見えない吹雪の中を下る。スロープ・角度も見えない悪条件であった。残念ながら“樹氷”も見えず、見る余裕もなくなんとか降り切る。こんな天気ではゴーグルが必携品なのだが、YUH氏は持参せずということで、辛かったようだ。仕方なく、彼はパラダイスから大平コースを経て、宿までゴーグルを取りに行くこととしいったん別れる。私達4人は、樹氷原コースから黒姫コースを堪能し、ユートピア・百万人ゲレンデを通り、横倉まで降りるコースを下る。名物の“横倉の壁”は今回全員自重してパス。12時頃ロープウエー乗り場まで降り切って、近くのロッジ・レストランに入る。昼休みの超繁忙時間帯だが、思ったほど混んでなく座席は確保できた。ここでYUH氏と合流。 午後からは、蔵王中央ロープウエーで上る組(3人)と大森ゲレンデ方面チャレンジ組に分かれて行動。14時30分頃に中央ゲレンデで合流することとしたが、大森組は少し遅れて到着する。 そこから、ハ―ネンカムコース(元国体滑降コース)を下る予定だったが、雪のツキがあまりよくないのとアイスバーだったのでバイパスして、高鳥コースから下り、ハ―ネンカムCコース、サンライズ、中森コースへと移りながら、本日の滑走を終了。16時頃まで目いっぱいの滑走でした。 結局天気は、午前中に一瞬だけ太陽が顔を出すことがあったが、ほとんど小雪か曇りだった。ただ、ザンゲ坂を下るときのような強烈な吹雪はないのが幸いだった。 ・夕刻 17時30分からの早い夕食の後、“樹氷のライトアップ”というイベントがあった。女性陣2人がこれにチャレンジした。日中でさえあれほど寒かったので私は最初から参加する意思はなかった。 彼女らが帰ってきて、写真を見て驚いた。天気もまずまず、写真も良く撮れていて大満足の様子でした。 ・2月24日 天気:雪。4人は元気よくゲレンデに出かけた。 私は、スキーは止めて、昔お世話になった民宿・ジンギスカン食堂「まつしまや」に出かけることにした。宿から車で蔵王温泉街まで送って頂いた。 11時前だったので、食堂は開店前で電気がついていなかったが、運転手さんがわざわざ降りて店に交渉してくれる。都会の運転手ならこうはいかない。やはり田舎の人達は人が良い。まもなく戸をあけてくれて店内に入る。 若旦那の奥さんが応対してくれて、20年前まで毎年お世話になったものですと告げ、おばあちゃんに面会を求める。間もなくおばあちゃん登場! 「わー○○さんお久しぶり!」と顔をくしゃくしゃにして・・・私も何となく目が潤む思いであった。多分20年振りくらいだと思うが、しっかり顔も覚えてくれていた。 おばあちゃんとあの頃の話、家族の話、食堂経営(?)等々の話を食堂のテーブルに差し向かい(私は熱燗を飲みながら)で30分位話していたら、昼食時のお客さんがぼちぼちと現れて、そのうち10名くらいの団体さんもどやどやと入ってきて、やがて店は大忙しとなった。すぐさま、おばあちゃんも臨戦態勢に入る。せいぜい20人位のテーブル・椅子席なので、「あなたは、あちらで飲んでいて」と奥の部屋に案内されるがままに席を移る。そこは、昔、民宿時代の宿泊者専用の食堂である。私はお酒をお替りしたり、そばを食べたり昔のことを思い出しながら至福の時間を2時間ばかり過ごした。 昔から、『ジンギスカン食堂』として温泉街では有名な老舗。 最近は、ホテル・旅館も温泉街の外側に広がって、最近はこの温泉街も昔ほどの賑やかさがなくなってきた由。全盛期には年間150万人ほどの観光客・スキー客が訪れていたが、最近ではその半分位という。 それでも私がいた時間帯では、食堂も大忙しのようで「ああ、良かったな―」と一人つぶやきながら飲む。 この人(H 利子さん)、80歳。若い頃、旧NTTで働き旦那と職場結婚。 蔵王の食堂のお嫁さんになって50数年(推定)。その主人も昨年他界。 今は息子さん夫婦が店を継いで、最近では忙しいときはお孫さんも手伝うのだそうだ。そんなお店「ジンギスカン食堂」の看板を家族経営で守っている。 おばあちゃんは数年前に軽い脳梗塞を患ったが、ほとんどその気配を感じさせない、元気いっぱい、カッカッカと笑う顔は今も愛くるしいほどだ。顔の艶も良く皺がないのに驚いた。 昔、お互いに若かった頃(40年位前?)に当時としては珍しい、髪の毛をカラーに染めて、テレビ取材に応じていたことがあったが、そんな話をすると珍しく顔を赤らめて、フッフッフと笑う。近所でも評判の派手なおばさんだった。 <おばあちゃんの話は続く> 今年の2月上旬、蔵王で女子ワールドカップジャンプ蔵王大会があった。強風で延期となり、次の日、1日に2戦し、高梨沙羅ちゃんが連続優勝した。開催期間中、街を挙げてボランティア活動した。当店でも、嫁さんが参加。お茶のサービスを行ったが、お茶のサービス先は、選手や役員にではなく、もっぱら見に来たお客さんへのサービスが徹底された由。『時代が変わったねー』と述懐していた。 『あなた達はよく滑ってたねー』という。私は40年ほど前から約20年間お世話になった。来るたびに、リフトが動き始める8時半頃にはリフト乗り場に行って、リフトが止まる4時まで目いっぱい滑って、夕食は決まって「ジンギスカン鍋」。それが終わるとまたスキー担いでナイターに出かける。10時頃帰ってきて、風呂に入って、また酒飲んで・・・、滞在中毎日そのペース。 当時の女主人(おばあちゃん)に、「よくやるねー」とあきれ顔で確かに言われたことを記憶している。・・・あの頃は若かった! <おばあちゃんの悩みも聞きました> この建物(道路側は食堂だが、後方の部屋は民宿だった)も老朽化して、建て直さないと民宿は出来なくなった。消防法も厳しいから、建て直すにはかなりカネがかかる。借金して息子に引き継がせたくない。結果として出した結論は、民宿は止めて、食堂だけでやっていこうと・・・。 御主人は、昨年、胃と腸の間に癌ができていて、気がついたときは末期でした・・・。どちらかというと無口な人で、ほとんど店には出ず、裏方に徹していました。店は派手おばあちゃんの独壇場でした。そういえば、いまの息子さんも親父さん似てあまり笑い顔のない・・・のようです。 「冬は雪もあるし、寒いし、外にはあまり出ません。店の手伝いで動き回っているから何とか健康を維持しています」 <雪が溶けたら少し外で動き回ろうね・・・と僕> 娘さんが八王子で所帯を持っていて、その子供(お孫さん)さんが結婚した由。「結婚式も新婚旅行もしないで籍を入れただけです。今はそういう時代なのね」と苦笑いする。 笑うと昔の面影が思い出されて、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ姿を見ていると、そして別れ際に、「よく来てくれました」といわれると思わず目頭が熱くなって・・・うんうんとうなずくだけだった。 <おばあちゃんいつまでも元気で頑張ってね>と手を握って別れました。 行ってあげて良かった。私とおばあちゃんの2時間のランデブーでした。 良い再会でした。 ≪次回は、とんでもないハプニングと一期一会の道中まで・・を予定≫
<ゴルフ準備中・・・あれこれ>
◎2月某日連休前の金曜日。行きつけの居酒屋さんでの話。 ここのママさんは、昨年12月初旬に肺がんの手術をした。話を聞くだけで心が痛むのであるが、本人はいたって元気。最近では、軽いトレーニングしてゴルフに備えているという。彼女は数年前に腎臓がんの摘出手術をしたばかりである。しかし、手術してから数カ月してゴルフにカムバックした。 今回の肺では、背中から胸にかけて25センチほどの傷跡となっているそうだ、が、それにもめげず、またゴルフへの復活を目指してトレーニングをしている。これ位の気丈さがなければ癌は克服できないのでしょうが、いやはや恐れ入った気力である。 今日は寒いから・暑いからとか、雨が降っているからとか何かの理由を探して練習をしない人達に・・・こんな人もいるよ、と話してあげたいものである。 ◎2月某日金曜日の夜。 明日はオープン戦という前夜。恒例の木曜日の水泳が出来なかったので1日遅れの水泳トレーニングで仕事帰りにスポーツクラブへ向かう。 スポーツクラブの1回エレベータ前で待っていると、3人ほど降りてきた人がいて、その中に知っている顔がいる。 一瞬、眼が合って、先方から「○○さんこんばんわ。待ってますよ!」と声がかかる。その意味はこうだ。 私としては、12月からシーズンオフとしてラウンドをしない主義だが、その間は「インドア練習場で鍛えよう」と考えて、同ビルにある、昔、加入していたゴルフスクールに再加入の申込用紙を貰ったままとうとう2カ月が過ぎた。声をかけられた氏はそのスクールの校長先生である。もうかれこれ2カ月余りになるのに、しっかりと覚えていらっしゃる。さすがは商売人。見込客はちゃんとマークしているようだ。 申込みをしていなかった・練習をしていなかったのは、・・・右手の腱鞘炎がまだ治りきっていないからである。練習場のマットは、人工芝だが結構衝撃がある。このまま練習をするときっとまた痛みがひどくなるだろうと躊躇しているのである。やりたくない気持ちがそうさせているのではなく、過去に痛い経験(その時は肘痛であった)があるから・・・である。 再加入・練習はもう少し様子を見ようと思う。 ◎3月2日土曜日からラウンドを再開します。 “啓蟄”の頃からゴルフを再開することにしております ちなみに、啓は「ひらく」、蟄(ちつ)は「土中で冬ごもりしている虫」の意味で、大地が暖まり冬眠していた虫が、春の訪れを感じ、穴から出てくる頃。 (実際に、動物や虫(種類によって違いますが)が冬眠から目覚めるのは、最低気温が5度を下回らなくなってから、平均気温が10度以上になってからだそうです。) ゴルフ仲間にも、「最高気温が10度以上になったらやります」と公言しております。 カレンダーで言う今年の啓蟄は、3月5日。 ということで、3月2日の土曜会に参加することにしました。同じように冬休み中だった3人に声をかけたら賛同してくれました。 まだ練習不足ですが、・・・・・・楽しみです。 |
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