2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
<今シーズン前半戦のスコアです>
最近の10戦 44,40(4月16日相模野)
42,44(5月2日相模野)
45,49(5月4日相模野)
47,46(5月7日相模野)
47,46(5月15日相模野)
45,45(5月21日相模野)
44,43(5月28日相模野)
44,46(6月8日座間CC)
45,47(6月18日相模野)
47,49(7月2日相模野)
1ラウンド平均90.5
今の実力はこんなもの。ハーフ50以上にはならないが、ボギーペースがいいところ。
昨秋からの右手肘痛がやっと気にならなくなり(多少違和感はあるが差し支えない)、月3回くらいのペースで廻っているが、ほとんど練習なしのぶっつけ本番のみ。老化現象の悲しさ、飛距離が目に見えて落ちたことは、親しい友人からも指摘される。同じコースを回っていると、昔はあの辺まで飛んだのに・・と悲しくなる。例えば、
相模野CCの城山コース7番ロングホールの例を採れば・・1打目は谷越えのやや上り、1打目がOBの時は前進ティが一段上った位置で210ヤードの地点にあり、以前はこの辺まで飛んでいたドライバーが、今はその登り坂を上らない地点までで失速190~200ヤード止まりとなる。更に、次の8番ホール打ち下ろしのやや左ドッグレッグ。ここはフェアウエイ右側よりフックボールで行くと200ヤード付近から下りのランが出て220ヤードくらいに飛ぶことがあったが、今はフックが入っても打球が低いため200ヤードが精一杯だ。(そういえばこの頃打球が低い傾向がある)
相模コースの4番は打ちおろし谷越えのミドルホール。右側は山側で隣のコースと林で仕切られワンぺナが出やすく、左側はちょっと曲がると谷へサヨナラOBとなる。私はこのコースが苦手で、大抵は左に引っ張ってOBか右に押し出してワンぺナとなる。ここは左からややスライスボールを打てれば楽勝なのだが・・・。それでも前進ティから4オン、ワンぺナから3オンが可能なのでダボ以内で可能なのだが・・・。
相模野CCは、どちらかというと山岳コースでアップダウンが多く、左右にOB、ワンぺナが多くあり、このコースを攻略するには、全般的に曲げないこと、特に左側にケガが多いコースです。
今年の課題は曲げないスイングも心がけながら、これまでのフック系を修正し、スライス系にすることを決意しました。また、低いフックでランを稼ぐよりも高いボールでキャリーを稼ぐことにしました(登り坂も多いので)。したがって球筋としては高いボールのフェード(理想です)を目標にします。
という訳で今年は実戦でそのつもりを心がけてきました。(が、これまでの所ほとんど修正されていません)
インターネットで、米田某氏のレッスン講座がありました。曰く「3カ月で30ヤード飛距離を出すスイングづくり」というのがありました。
内容は、どういうアドレス、スイングをするとどのようなボールが出るかという理論と実践練習のカリキュラムで、写真、動画、そして解説が詳しく語られています。あとはそれを如何に練習し自分のスイングにするかです。
これを参考に、「高いボールでフェードボールを打てるようになること」を目標に取り組みました。
スライスボールはビギナーの頃は特に意識しないでもスライスだったのに、いつからかフック系になってから、スライスが打てなくなっています。
オープンにアドレスしても、アウトサイドインにテイクバックしても、インパクトではインサイドアウトのフック軌道となってなかなかスライスは打てません。(これまでのドライバーショットは、ボールを真中寄りでティは低め、右手右肩下がりでアドレスし、スイングプレーンはアップライトでなくやや水平、典型的なインサイドアウト軌道であった)
最近になって、ボールの位置を左足内側に寄せ、ティはやや高め、アドレス時の左手よりも右手を上側にセット(結果として上半身は左側を向く)、テイクバック時のヘッドをやや下向きに、左手のコックはやや早めに、トップスイングはアップライトに、ダウンスイングではアウトサイドインを意識して、左足への体重の移動を意識して・・・そんなスイングチェックをしています。
これらがうまくかみ合ったときは、高いボールでやや左に出たボールが多少右側にスライスしたボールとなって、210~220ヤードでるようになりました。あとはどれだけ確率を高めるかが課題です。
今年の前半戦はこうしたスイングの試行錯誤に終始しました。
でも後半戦が楽しみです。(後半戦の第1戦は7月9日、ドライバーで4~5発、理想のボールが出ました。アイアンも安定してました。パッテングがイマイチ。結果は42,42とまずまずでした) 7月はあと2戦。8月はお休み。9月からまた挑戦します。
世界で一番人気がある国[日本]・・・その4
勿体無い[もったいない]
―日本語には原始日本から継承されてきた〝和の心″が宿る
☆ケニア人が世界に伝えた[もったいない]
平成17年3月、[もったいない]という日本語が環境保全の合言葉として世界的に知られることになった。
これは国連の「女性の地位委員会」閣僚級会合で、、ノーベル平和賞受賞者でケニア環境副大臣のワンガリ・マータイ氏が演説し、日本語の[もったいない]を環境保全の合言葉として紹介し、会議の参加者とともに唱和したことによる。
マータイ氏はこの日の演説で「『もったいない』は消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、資源再利用(リサイクル)、修理(リペア)の4つの『R』を表している」と解説し、「MOTTAINAI」と書かれたTシャツを手に「さあみんなで『もったいない』をいいましょう」と呼び掛け、会場を埋めた政府代表者やNGOの参加者とともに唱和した。さらにマータイ氏は「限りある資源を有効に使い、みんなで公平に分担すべきだ。そうすれば、資源をめぐる争いである戦争は起きない」と主張した。このように日本語が世界に紹介されることは誇らしい知らせではないか。しかも『もったいない』を世界に紹介したのが日本人でなく、ケニア人だったことはより意義深い。
我々日本人は『もったいない』を様々な場面で使用している。
総じて、尊いものや価値のあるものが、穢(けが)され、粗末に扱われ、能力が発揮されず、本来あるべき状態から離れている様などを惜しみ嘆く気持ちを表す言葉であると言えよう。そして日本人は、そのような状態にしないように戒める言葉として[もったいない]を用いている。
和み[なごみ]
☆日本は「和の国」といわれる。
「和」とは主体性を堅持しながら他と協調することを意味する。
日本は縄文時代から、家族の和、地域の和、大自然と人類との和など、様々な次元における「和」を大切に育んできた。ゆえに、日本の家庭には笑いが絶えず、農村は豊かで国は栄え、国際社会と良好な関係を保ちながら、大自然との調和を実現してきた。いずれも出発点は「和」の精神文化であって、これは日本の大きな特徴の一つである。
世界史の教科書を読むと、
[人類の歴史は戦争の歴史]であり、
世界中のあらゆる地域で国家の攻防が繰り返されてきた。
中でも宗教戦争は特にたちが悪く、長期化して民間人を巻き込み、時には同国民同士が殺しあい、膨大な数の犠牲者を出してきた。(十字軍遠征、イスラムのジハード[聖戦]、ドイツ30年戦争等)
日本は現存する世界最古の国家であり、日本が2千年以上王朝を守ってきたのは、国内に宗教戦争がなったことも重要な要素の一つであろう。
世界が日本人を歓迎するのは、ペリー来航により開国して以来、日本が世界の国々と最も多くの和を育んできた結果ではないだろうか。
日本が世界中の国と友好関係を保っているからこそ、国際社会の中で日本が担える特別な役割があるのではないか。これは他者との協調を大切にしてきた日本の「和」の精神があって初めて可能な事である。
☆軍艦沈没で育まれたトルコとの友好
明治23年に和歌山県串本町沖で沈没したオスマントルコ軍艦[エルトールル号]の遭難事件は、日本ではあまり知られていないが、トルコでは社会科の教科書に必ず紹介されている有名な事件で、日本とトルコの友好の証として、120年を経た今もトルコの国民に記憶されている。
明治天皇にオスマントルコ皇帝からの親書と勲章を献上後横浜港を出発し、本国を目指した。出港から2日経った9月16日夜半、台風の中心に入り込み、紀伊大島の樫野埼付近の岩場に座礁。機関が蒸気爆発を起こし、9時30分頃沈没した。この遭難事故で生還したのは69名。提督をはじめ約500名の命が失われた。
地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当に尽力した。紀伊大島は貧しい島で、島民は食べるものにも困る状況だったが、非常食として飼っていた鶏や食料、衣類などを持ち寄り、遭難者たちに分け与えたと伝えられる。
生存者69名は、明治24年1月明治天皇が派遣した軍艦2隻に分乗し、イスタンブールに到着し盛大な歓迎を受けた。しかも翌々年には、民間で集められた義捐金が届けられた。
日本とトルコの友情の物語にはまだ続きがある。
昭和60年のことである。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は、イラン上空を飛ぶ航空機を全て撃墜する旨の声明を発した。
各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めたが、日本は自衛隊を海外派遣できないうえに、政府が日本航空に救援機の派遣を求めるも、同社の組合が安全性などを理由に反対したことで、日本人の保護ができない状態に至った。
そこで、イランに駐在する野村大使が困り、在イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏に相談したところ、なんとトルコが救援機を派遣して日本人を救出することになったのである。
この時、トルコ大使は「トルコ人なら誰でもエルトウールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。御恩返しをさせて頂きましょう]と語ったという。
215人の日本人は、期限の1時間15分前にイラン領空を抜け、日本に帰国できた。救援機の派遣を決めたトルコのオザル首相(当時)は、他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたのだ!!
そのほか、本誌には
・八百万(やおろず)―大自然と調和する日本人
・天皇(すめらぎ) ―なぜ京都御所にはお堀がないのか
・ジャパン・ルネッサンス ―日本文明復興
(対談)
日本は生活そのものが[芸術]だ
―天皇から派生する枝葉の中に我が国の文化は全てある!
等が語られている。
<「世界で一番人気がある国[日本]」の紹介はこれで終了です・・7/8記> 世界で一番人気がある国[日本]・・・その3
匠(たくみ)
―世界が愛する日本のモノづくり
『イラクの高速道路は日本製』
イラク戦争開戦まで1カ月を切った平成15年2月に、故サダム・フセイン大統領の招きでイラクを訪れたときの話。・・作者
すでにイラクの制空権は米軍の手に落ち、バクダット空港へ民間機は飛べない状況にあった。ヨルダンの首都アンマンで車を借り切り陸路でバクダットを目指した。ヨルダンから国境を越えてイラクに入ると、砂漠の荒れた道を走るものと思っていたが、その予想は全く外れた。
360度見渡す限りの砂漠に、整備の行き届いた、起伏の全くない、平坦な高速道路が、真っ直ぐにどこまでも続いていたのである。その走りはおよそ飛行機の滑走のようだった。それもそのはず、ヨルダン国境からバクダットに延びる国道10号線は、有事に戦闘機を離発着させることを想定して作られていたものである。そして、その砂漠の道路は、1980年代に日本の丸紅が建設したものである。辺境のシリア砂漠の真ん中に、これほど立派な高速道路を完成させるには大変な苦労があったに違いない。丸紅の元社員によると、この道路建設では予算が大幅に膨れ上がったが、それでも手抜き工事は一切なかったという。
≪この記事には少なからず驚いた。道路建設が行われていた当時、私(harenov)は愛知県に単身赴任をしていたが、同じ会社で私の高校の同期生S氏がこの工事の応援(主として重機の保守)でイラクに行っていたのだ!ということを思い出した。確か現地に2年位駐在していたと思うが、行く前に激励会を行い、帰って来たときに現地での厳しい状況を語ってくれたことを思い出す。彼らが築いた道路(実際には丸紅の下で土木建設会社が施工したもの)が立派に活用されているという話を聞き嬉しい限りである・・その後の混乱でどうなっているか心配はあるが≫
『台湾に作られた東洋一のダム』
現在でも台湾の歴史の教科書に登場し、台湾人であれば誰でも知っている日本人がいる。日本統治時代の台湾で、大正から昭和にかけて農業水利事業に大きな貢献をした技術者、八田与(與)一である。
八田は、台湾の広大な嘉南平野が常に干ばつの危機にさらされていることを改善するために、巨大ダムの建設を計画し、昭和5年に竣工した烏山頭ダムと灌漑用水を完成させた。これにより、嘉南平野の米の収穫高は、30万トンから180万トンに急増し、現在では一大穀倉地帯となって、見渡す限りの農地が続いている。
八田が地元の農民に愛されたのは、歴史に残る水利計画を完成させたのみならず、人柄によるところが大きいと言われている。
現場監督として、地元の人々と寝起きを共にして働き、労働環境の改善に尽力したことが知られている。日本人と台湾人に平等に接した八田は地元の人に慕われ、地元の人々に大切にされる存在になったのである。
八田の墓は、烏山頭ダムを見下ろせる高台にあり、毎年5月8日の命日には、日本と台湾各地から数百人もの人が訪れ、おびただしい数の花が捧げられる。平成20年、21年には馬英九総統も献花に訪れ、八田を称える演説をしている。・・・という。
日台友好の柱を現在に残してくれた八田技師に感謝申し上げたい。
『ナヴォイ劇場の建設』
―強制労働でも手抜きしない日本人の仕事ぶり
ウズベキスタンの首都のタシュケントにあるオペラ・バレエ劇場である「ナヴォイ劇場」は、およそ2年の工事を経て昭和22年に完成した。
第2次大戦の末期に、ウズベキスタンに連行された日本人抑留者2万5000人は、過酷な労働を強いられ、道路、工場、運河、炭鉱、発電所、学校などの社会基盤の建設にあたった。
厳しい気候条件、十分な食事を与えられない厳しい収容所生活、そして就労させられた危険な仕事等の結果、病気や事故などで813人の日本人がウズベキスタンの地で命を落とした。
ナヴォイ劇場の建設には約500人の抑留者が充てられ、そのうち約60人が事故などでなくなったと伝えられる。そのような理不尽かつ非人道的な状況の中であっても、手抜きすることはなかった。シベリアに連行された日本人には、旧満鉄や建設会社の技術者、関東軍の工兵達等、最先端の技術者が多く含まれていた。彼らは戦争に敗れても日本人としての誇りを捨てることなく、丁寧な仕事をして、見事な劇場を完成させたのだった。入口の天井付近等には細かい彫刻や模様があしらわれているが、それらも手先が器用で細かい作業を得意とする、日本人の技術者が作ったものである。
1966年4月、タシュケントを震源とする大地震が起き、市内では震度8を記録し、建物のおよそ3分の2が倒壊した。ところが、当時築18年を迎えたナヴォイ劇場は全くの無傷で、見渡す限りの瓦礫の山の中で、凛と輝いていたという。これを見たタシュケントの市民は、完成度の高い仕事を成し遂げた日本人抑留者たちのことを改めて称えた。筆者に通訳してくれた地元の大学生は、母親から『日本人の様な真面目な人になりなさい』と教えられて育ち、日本を夢見て日本語を学び始めたという。
平成18年8月30日、ウズベキスタンを訪問した当時の小泉総理が、タシュケント市内の日本人死亡者慰霊碑と日本人抑留者記念碑を訪れて献花し、ナヴォイ劇場を訪問し、「先人たちの遺産に目を細めた」という報道があった。
世界で一番人気がある国[日本]・・・その2
<頂きます>(いただきます)
―『ミシュランガイド』が東京を絶賛する理由
『ミシュランガイド東京2008』が発売されると大きな話題となった。
発売日に9万部売れたのは、ミシュランの歴史上初の快挙だったという。東京版の発売で最も衝撃が走ったのは欧州だった。なぜなら、星(☆)付の店の数は2008年版東京が150軒で、同年版パリの74軒の2倍以上に上り~中略~。(因みに、2010年版東京は197軒、同パリは77軒である)
『ミシュランガイド』第6代社長ジャン・リュック・ナレ氏がインタビューで東京が高い評価になった理由を次のように述べた。
「パリを美食家の都市というが、東京は驚くほど素晴らしい飲食店が多かった。多くの人々が料理を楽しんでいるからだ。日本料理はクオリティーも素晴らしい。シェフのレベルもどの都市よりも高く、何よりもシェフ固有の技術が良く伝授されていた。特に私が高く評価したのは専門性だ。~中略~
私が行った飲食店はほとんど寿司店、刺し身店、焼き鳥店、うどん店など専門店に細分化されていた。こうした特性から日本の飲食店の相当数はだれも追いつけない専門性を確保していた。当然、いい評価につながる」
『ミシュランガイド』は、パリ万博があった1900年にタイヤメーカーミシュラン社が創刊したドライバー向けのガイドブックから始まった。
レストランに☆をつけて評価する方式が導入され、その調査の匿名性、公正性や妥当性などから、ミシュランの格付けはフランスの美食家たちにとって、最も信頼のおける指標となった。
フランスでは☆が一つ付くたびに30%ずつ売り上げが上がると言われている。したがって、レストラン経営者にとって、☆が付くかどうか、またいくつ付くかは経営上、重要な要素となる。
―『いただきます』という言葉。
古来、日本人にとって食事をすること自体が神事だった。食事は神からの賜り物で、料理はいったん神に供え、祈りをささげてから、お下がりとして頂くものだった。食前と食後に、食事に向かって一拝一拍手をするのが日本における食事への感謝の作法である。
「いただきます」という言葉は、もともと「あなたの命を頂きます」という意味である。人が生きていくためには、動植物の命を摂取し続けなくてはならない。日本人はおそらく縄文時代から、食事をするたびにこのように大自然の恵みに感謝してきた。だから、昔から、米を一粒でも食べ残すと目がつぶれると言って、子供たちに米を大切にする心を教えてきた。日本人の食事に対する意識は異邦人とは全く異なるのである。食事を神と考える日本人の感覚も、日本人が料理を究めた一つの要素ではないだろうか。・・と作者は言う。
<以下、次回に・・・・・2011.7.6記> [日本は、世界で一番人気のある国]です
過日、手にした本に[日本はなぜ世界で一番人気があるのか]というのがある。
PHP新書から出版された、竹田恒泰氏の著作である。(氏は旧皇族・竹田家に生まれ、明治天皇の玄孫にあたる)
以下は、特に印象に残った内容の抜粋である。
<英BBCの調査で分かった日本の人気>
・平成18年、英国のBBC放送が33カ国で4万人を対象に世論調査を行った結果、「世界に良い影響を与えている国」として、最も高く評価されたのが
日本である。 ・一方、この調査で「世界に悪い影響を与えている国」とされたのは、第1位がイラク、第2位が米国だった。「ならず者国家」と罵る国と罵られる国がともに最も否定的に評価されたのは興味深い。
<台湾は「ラブ・ジャパン」の大御所>
・平成21年に、交流協会が、「台湾における対日意識に関する世論調査」の結果を発表し、台湾人の最も好きな国が日本であることが分かった。
[貴方の最も好きな国はどこですか?]という質問に対して、中国2%、米国5%、台湾31%などを差し置いて、38%が「日本」と答えている。
・日本に「親しみを感じる」と回答したのは、65歳以上が58%、20代が72%、30台が77%だったという。
・日本のイメージについて聞いたところ、「自然の美しい国」が最も多く、「経済力、技術力の高い国」「きまりを守る国」「豊かな伝統と文化をもつ国」が続く。
<日本人は世界最良の客>
・世界最大級のオンライン旅行会社のエクスぺディアは、平成21年に、世界のホテルマネージャーに対して、各国観光客の国別評判を調査した。
「ベストツーリスト」(最良の観光客)に選ばれたのは日本人で、しかも3年連続であるという。調査は欧州、アメリカ、アジア太平洋の地域別だ集計され、日本人はすべての地域で1位に評価された。
・更に、日本人は「行儀のよさ(その国のマナー・エチケットを守る)」「礼儀正しさ」「部屋をきれいに使う」「騒がしくない」「不平が少ない」の項目において1位に選ばれたほか、ほぼすべての項目で上位に入った。総合評価において、日本人は71点を獲得し、2位の英国人52点、3位のドイツ人51点を大きく引き離した。
<【クール・ジャパン】は日本のポップカルチャーから始まった>
・「ポップカルチャー」とは、マンガ、アニメ、J-POP、ファッション等の最近の日本の若者文化を指して用いられる。日本的なかっこよさを指す【クール・ジャパン】という言葉は、日本のポップカルチャーを愛する欧米の若者たちによって唱えられ、これが世界的な日本熱の原動力となってきた。
<日本のマンガ・アニメが世界に与えた影響>
・世界中のコミックショップに並ぶマンガのおよそ9割を日本のマンガの翻訳版が占め、フランスでは「ドラゴンボールZ」が最高で67%の視聴率を記録したことなどから、日本のマンガ・アニメの人気を窺い知ることができる。
・日本のポップカルチャーをテーマとした博覧会が世界各地で開催されていることも見逃せない。中でも最大規模を誇るのが、平成12年にパリで始まった「ジャパン・エキスポ」で、平成22年で11回目を迎え、18万人の入場者を数えた。
・異邦人の生き方にまで影響を与えた例もある。
・・女子バレーボールで、平成14年の世界選手権をはじめ、北京オリンピックでも活躍した、イタリアのエースであるピッチニ―ニは『アタックNo.1』を見てバレーボールにあこがれ、主人公の鮎原こずえと戦うのが夢だったという。
・・また、『キャップテン翼』の影響でサッカーを始めたというプロのサッカー選手が世界中に数多くいる。かって「世界最高のサッカー選手」と称えられたフランスのジダンをはじめ、ガットウーゾ、デルピエロ、トッテイ、ザンブロッタなど2006FIFAワールドカップの優勝国イタリアの代表選手の多くは『キャップテン翼』のフアンである。ジラルディーノは「翼が歩んでいた道こそ僕らの夢そのものだったんだ」と語ったことがある。今、物語の上で主人公の大空翼は、スペインリーグで活躍していて、FCバルセロナに所属しているが、ライバルである同国のレアル・マドリードの幹部が[なんで翼をうちに入れさせなかったんだ]と怒ったという逸話も伝えられる。
(集英社によると、『キャップテン翼』の世界での正規累計販売部数は約1000万部、国内発行部数は約7000万部に上るという)
<以下は、次回ご紹介したい・・・・・・・2011.6.24> |
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