2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
世界で一番人気がある国[日本]・・・その3
匠(たくみ)
―世界が愛する日本のモノづくり
『イラクの高速道路は日本製』
イラク戦争開戦まで1カ月を切った平成15年2月に、故サダム・フセイン大統領の招きでイラクを訪れたときの話。・・作者
すでにイラクの制空権は米軍の手に落ち、バクダット空港へ民間機は飛べない状況にあった。ヨルダンの首都アンマンで車を借り切り陸路でバクダットを目指した。ヨルダンから国境を越えてイラクに入ると、砂漠の荒れた道を走るものと思っていたが、その予想は全く外れた。
360度見渡す限りの砂漠に、整備の行き届いた、起伏の全くない、平坦な高速道路が、真っ直ぐにどこまでも続いていたのである。その走りはおよそ飛行機の滑走のようだった。それもそのはず、ヨルダン国境からバクダットに延びる国道10号線は、有事に戦闘機を離発着させることを想定して作られていたものである。そして、その砂漠の道路は、1980年代に日本の丸紅が建設したものである。辺境のシリア砂漠の真ん中に、これほど立派な高速道路を完成させるには大変な苦労があったに違いない。丸紅の元社員によると、この道路建設では予算が大幅に膨れ上がったが、それでも手抜き工事は一切なかったという。
≪この記事には少なからず驚いた。道路建設が行われていた当時、私(harenov)は愛知県に単身赴任をしていたが、同じ会社で私の高校の同期生S氏がこの工事の応援(主として重機の保守)でイラクに行っていたのだ!ということを思い出した。確か現地に2年位駐在していたと思うが、行く前に激励会を行い、帰って来たときに現地での厳しい状況を語ってくれたことを思い出す。彼らが築いた道路(実際には丸紅の下で土木建設会社が施工したもの)が立派に活用されているという話を聞き嬉しい限りである・・その後の混乱でどうなっているか心配はあるが≫
『台湾に作られた東洋一のダム』
現在でも台湾の歴史の教科書に登場し、台湾人であれば誰でも知っている日本人がいる。日本統治時代の台湾で、大正から昭和にかけて農業水利事業に大きな貢献をした技術者、八田与(與)一である。
八田は、台湾の広大な嘉南平野が常に干ばつの危機にさらされていることを改善するために、巨大ダムの建設を計画し、昭和5年に竣工した烏山頭ダムと灌漑用水を完成させた。これにより、嘉南平野の米の収穫高は、30万トンから180万トンに急増し、現在では一大穀倉地帯となって、見渡す限りの農地が続いている。
八田が地元の農民に愛されたのは、歴史に残る水利計画を完成させたのみならず、人柄によるところが大きいと言われている。
現場監督として、地元の人々と寝起きを共にして働き、労働環境の改善に尽力したことが知られている。日本人と台湾人に平等に接した八田は地元の人に慕われ、地元の人々に大切にされる存在になったのである。
八田の墓は、烏山頭ダムを見下ろせる高台にあり、毎年5月8日の命日には、日本と台湾各地から数百人もの人が訪れ、おびただしい数の花が捧げられる。平成20年、21年には馬英九総統も献花に訪れ、八田を称える演説をしている。・・・という。
日台友好の柱を現在に残してくれた八田技師に感謝申し上げたい。
『ナヴォイ劇場の建設』
―強制労働でも手抜きしない日本人の仕事ぶり
ウズベキスタンの首都のタシュケントにあるオペラ・バレエ劇場である「ナヴォイ劇場」は、およそ2年の工事を経て昭和22年に完成した。
第2次大戦の末期に、ウズベキスタンに連行された日本人抑留者2万5000人は、過酷な労働を強いられ、道路、工場、運河、炭鉱、発電所、学校などの社会基盤の建設にあたった。
厳しい気候条件、十分な食事を与えられない厳しい収容所生活、そして就労させられた危険な仕事等の結果、病気や事故などで813人の日本人がウズベキスタンの地で命を落とした。
ナヴォイ劇場の建設には約500人の抑留者が充てられ、そのうち約60人が事故などでなくなったと伝えられる。そのような理不尽かつ非人道的な状況の中であっても、手抜きすることはなかった。シベリアに連行された日本人には、旧満鉄や建設会社の技術者、関東軍の工兵達等、最先端の技術者が多く含まれていた。彼らは戦争に敗れても日本人としての誇りを捨てることなく、丁寧な仕事をして、見事な劇場を完成させたのだった。入口の天井付近等には細かい彫刻や模様があしらわれているが、それらも手先が器用で細かい作業を得意とする、日本人の技術者が作ったものである。
1966年4月、タシュケントを震源とする大地震が起き、市内では震度8を記録し、建物のおよそ3分の2が倒壊した。ところが、当時築18年を迎えたナヴォイ劇場は全くの無傷で、見渡す限りの瓦礫の山の中で、凛と輝いていたという。これを見たタシュケントの市民は、完成度の高い仕事を成し遂げた日本人抑留者たちのことを改めて称えた。筆者に通訳してくれた地元の大学生は、母親から『日本人の様な真面目な人になりなさい』と教えられて育ち、日本を夢見て日本語を学び始めたという。
平成18年8月30日、ウズベキスタンを訪問した当時の小泉総理が、タシュケント市内の日本人死亡者慰霊碑と日本人抑留者記念碑を訪れて献花し、ナヴォイ劇場を訪問し、「先人たちの遺産に目を細めた」という報道があった。
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