2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
<ニュルンベルク> 中欧マルクト広場にある聖母教会では、1509年に取り付けられたドイツ最古の仕掛時計が毎日正午に動き出す。現れ出る人形は7人の選帝侯達である。 左側の泉の塔では、黄金の環があって、3回廻しながら願い事を唱えると願いが叶うとか・・・・・・私はやらなかったが。 <ライン川流域・・・世界遺産ライン川の自然景観> 今回の旅の終わりは、ロマンテック・ラインと呼ばれるリューデスハイムからザンクト・ゴアースハウゼンまでのライン川沿いのドライブ。 この間の有名な「ローレライの岩」やグリム伝説集の「ビンゲンのネズミ塔」などがある。 ≪リューデスハイム≫ なだらかな斜面に広がる一面のブドウ畑(写真)を背後に、リューデスハイムの小さな町がある。 民家の間にワインハウス(ワインを飲ませる店)が点在している。有名なドロッせルガッセ(つぐみ小路)は街の中ほどにある。 ただ1本の細い道なのに、両側にズラリとワインハウスが並ぶ。我々が昼食に寄ったハウスでは、ピアノの弾き語りが有名なお店であった。 有名な「ローレライの岩」を通り過ぎて間もなくのザンクトゴアースハウゼンの丘の上から、ライン川の蛇行している景色を眺めて10日間の“中欧の旅”はフィナーレとなった。 (この日、ライン川のドライブ中は再び雨模様であった。しかし、最後のライン川眺望時には奇跡的に雨が上がった。「ローレライがほほ笑んでくれた」・・・それぞれ旅人の勝手な理解だが、ともかく晴れてくれて結構でした) <10日間の“よくばりドイツ・ロマンティック街道と中欧5カ国の旅”は無事終わりました。長い休暇にご理解いただいた皆さんに感謝したい・・有難うございました> <プラハ・・世界遺産:プラハ歴史地区>
プラハ城は城塞都市の名残である。ヴルタヴァ川とカレル橋を前景に、丘の上全体にプラハ城が広がっている。(写真)
城が最初に建てられたのは12世紀。現在の形になったのはカール4世時代の14世紀である。
1410年制作された旧市庁舎の天文時計(写真)。真ん中が時刻を示し、下は暦板。そして上の窓は12人の使徒が顔を出す仕掛時計。毎日9時から21時まで1時間毎に動く。もう600年も時を刻み続けている。毎正時間前に広場は見学者でいっぱいになる。
10世紀に建てた簡素な教会を基に、14世紀、カール4世によってほぼ今日の姿になる。ステンドグラスが素晴らしい。(写真右)
カール4世が神聖ローマ帝国として君臨した14世紀後半、ヴルタヴァ川に石橋をかけ、中欧初の大学を設立、教会や修道院の建設、そして街の区画整備も行った。(写真右:カレル橋からプラハ城を望む)
(写真左:プラハ城から旧市街を望む) (写真右:旧市庁舎前広場からティ-ン教会) ヒトラーがボヘミアを併合した時、チェコは軍事力があるのに戦わなかった。それは美しいプラハを戦場にしたくない気持ちによるものでなかったろうか。 1968年、ソ連軍による軍事介入の時も無抵抗だった。何事にも慎重で思慮深い民族性が、千年の歴史を誇るこの美しい古都を守った、といわれている。
(そんな歴史の場面に立つと、往時の人々の苦悩が偲ばれ感慨ひとしおだった・・・プラハは今回の旅で一番印象深い街だったと思う)
感動といささかの興奮を抑えながら、再びチェコ国境を越えてドイツ・バンベルクに向かう。 <バンベルク・・・世界遺産・バンベルク歴史地区と街並み> 多くの中世都市は、教会と市庁舎のたつマルクト広場が中心にあり、それを民家が取り巻くように出来上がっている。 しかしこの街ではレグニッツ川左岸の丘陵地帯に大聖堂や市況の館であるノイエ・レジデンツ、教会(写真右下)、修道院が立ち並び、市民が築き上げた旧市街(写真下)は川の右岸に広がっている。そして市庁舎は川の真ん中(写真右)に立っているという、大変珍しい街である (バンベルクの街並み) (聖ミヒャエル教会遠望) 7日目(5月25日)プラハからチェコ国境を越えてドイツ・バンベルクを見学し、宿泊地ニュルンベルクに到着した。 <次回は最終日、ニュルンベルクから古城街道を西へ・・・・7月8日記> 広場を囲んで色とりどりに飾られた家々が整然と立ち並ぶ様子はまるで絵本に描かれた街のようで、“モラヴィアの真珠”と呼ばれている。
(昔、東京にも“丸の内(別名三菱村)”があって、ビルの高さが9階建てで揃えたオフィス街だった。・・・・・今は見る影もないほど、高層ビルが乱立してしまった。昭和45年、その“丸の内”で仕事をしたいと憧れて入社したが、今は遠い昔の思い出である) ボヘミア地方の城の中では、プラハ城に次ぐ規模の大きな城。
様式の異なる建物は第1から第5までの中庭で結ばれている。(写真右)
第6日目(5月24日)は、スロバキアからチェコに入る。天気は引き続き良好。テルチの印象は、まるでおとぎの国に入ったような雰囲気であった。 チェスキークルムロフは中世の都市。極端に蛇行した川(ヴルタヴァ川)に守られ、高台の城を中心にルネサンスの街並みが残る小さな町であった。
夕刻、本日の宿泊地チェコの首都プラハに到着した。 <晴天は3日続いた。あと2日なんとか持ってほしい・・・7月8日記> ≪ブタペストの街のあらまし≫
10世紀末の建国。ハンガリーの首都はエステルゴム(ブタペストの北西60Kmにある)だったが、13世紀のモンゴル軍襲来後、ブダの丘に首都が移された。16世紀になるとオスマン・トルコ軍がハンガリーに襲来し、ブダを含む中央部と南ハンガリーがトルコの支配下に置かれる。この戦争でハンガリー王家の血が絶えて義理の兄のハプスブルク家に王位継承が移り、西北ハンガリーがハプスブルク家のものとなった。
1699年にハプスブルク家はトルコを追い出し、ハンガリー全土を支配する。1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が発足した。
第1次世界大戦の敗北はハンガリーを独立させたが多くの領土を失う。
第2次大戦後、ハンガリーは人民共和国となったが、1956年の「ハンガリー動乱」でソ連への批判が強まり独自の経済改革を進めていった。
1989年10月23日、ハンガリー共和国が誕生した。
13世紀半ばに建てられたロマネスク様式の教会が14世紀にゴシック様式となり、15世紀のマーチャーシュ王の時代に80mの高い塔が建設されてほぼ今日の姿になる。1867年、オーストリア=ハンガリー二重帝国の発足の折、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフのハンガリー国王としての戴冠式がここで行われた。
マーチャーシュ教会の東、ドナウ川に面して築かれた白亜の砦。1902年の完成。かってここに漁師組合があって王宮の丘の市場を守っていたことに由来。ここから眺めるドナウ川とペストの街は美しく、ブタペスト観光のメッカとなっている。
1000年にハンガリーを建国して国王となった聖イシュトヴァーンが祀られている。(写真:大聖堂正面をバックに)。
≪伝説の鳥トゥルル≫ ・・右上写真 王宮の北側の入り口付近の柵上に立つ怪鳥。トゥルルと呼ばれる伝説の鳥。
ハンガリー建国の父、アールバードを生んだといわれている
≪ハンガリーのお土産と食べ物≫ ハンガリーのお土産品は、ハンガリー刺繍のハンカチ、トカイワイン、ハンガリーチョコ、フォアグラ等、マーチャーシュ教会裏手の日本人経営のお土産店でGET。食べ物では、パブリカパウダーを使った牛肉を煮込んだ野菜スープ=グヤーシュが名物。ちょっと辛かったが・・・・。
ブタペストを後にしスロバキアの首都ブラチスラバに向かう。スロバキア国境に近付くにつれ道路事情があまり良くないようだ。幹線道路だが舗装状況が悪くバスがガタガタ泣いている。EU加盟国でも道路事情には若干差があるようだ。
<ブラチスラバ> ドナウ川に面しているスロバキアの首都。
街の歴史は古く、1世紀からローマ帝国の駐屯地として開かれた。7世紀に現在のチェコのモラヴィア地方からスロバキアにかけての地域にスラヴ人による最初の国家が成立。
その後マジャール人の侵攻により、約1000年もの間、ハンガリー帝国の支配下に置かれた。
1918年にチェコスロバキア共和国が誕生。1993年にチェコから分離独立し、スロバキア共和国となった。
現在は商工業で栄えて近代化も進んでいるが、ブラチスラバ城(写真左)とその城下に広がる旧市街は中世の面影を残し、街そのものが見どころとなっている。(城内から見るドナウと街並み:写真右下) 現地5日目(5月23日)も晴天に恵まれ、快適な旅を続けることができた。ハンガリーもスロバキアもそれぞれ国情が違うが、共通していることは日本のようなアスファルト舗装が少なく、セメント舗装が傷んでいるのと、元々昔からの市街地は石畳が多いのでハイヒール、革靴の類はあまり相応しくないようである。 夕食は、ドナウ河畔のレストラン。日曜日はだいたい休みの所が多く、このレストランも本来は休みのところを頼み込んで開いてもらったものらしい。 感謝感謝である。 3日目からビデオカメラを諦めて、デジカメの動画を動かしてきたがとうとうバッテリーがなくなってしまった。そんな話をしていたら、ツアーで一緒のご夫婦から、”ちょっと古いタイプだが使いませんか?”と、懐かしいフィルムカメラを貸してくれた。天の助け。・・・旅は道ずれ、世は情けとはこのことか・・・。 ありがたく貸して頂いた。 <次回はチェコに向かいます・・・・・7月8日記> 中欧の旅・・その8
<ウイーン>・・世界遺産・・シェーンブルン宮殿(写真右) オーストリアは神聖ローマ帝国の軍事拠点として置かれた辺境伯領だった。 12世紀前半、ウイーンが首都になると商業都市として栄え、13世紀のハプスブルク家によるウイーン統治が始まる。14世紀に神聖ローマ皇帝の座を得たハプスブルク家は、その後ほとんど帝位を独占。15世紀末に即位したマクシミリアン1世は婚姻によって領土を拡大し、これがハプスブルク家の家訓となって代々婚姻によってヨーロッパを支配していった。
16世紀にはオスマン・トルコの襲撃に悩まされ、17世紀には30年戦争やペスト流行など苦難の時代が続く。18世紀になると、マリア・テレジアとヨーゼフ2世がさまざまな改革を行ってウイーンを発展させた。
1848年の革命で皇帝にフランツ・ヨーゼフ1世が即位する。1867年、オーストリア=ハンガリー2重帝国が誕生し、第1次世界大戦まで続いた。
1918年、敗戦によって帝国は多くの領土を失ってほぼ今日の国境となる。
1995年にEU加盟を果たす。
音楽の都。世紀末絵画と世紀末建築の都。ハプスブルク家の長い歴史と豊富な文化の町。ウイーンならではの独特の雰囲気が漂う。
王宮は、ハプスブルク家とともに650年の宮殿の歴史がある。1220年頃に建てられた最初の館を中核に、歴代の君主たちが次々と建て増し、増改築が繰り返されてきた。その為様式の異なる各時代の建物の集合体になっている。 ≪シェーンブルン宮殿≫ 広大な敷地内には宮殿の他に馬車博物館、バロック様式の宮殿劇場、戦没者慰霊パビリオンのグロリエッテ、植物園、温室、動物園、そして庭園がある。マリア・テレジアに関してはシェーンブルン宮殿に多くの足跡がある。 ≪マリア・テレジア≫ 1700~1780。1740年、父カール6世の後を継ぎ、オーストリア大公となる。戦争や政治に取り組みながらも16人の子供を生み、夫を慈しむ家庭的な面も備えていた。政治では多くの改革を成し遂げた。 (写真右:シェーンブルン大ギャラリー) (写真左:シェーンブルン鏡の間) ≪フランツヨーゼフとエリザベート≫ エリザベートはドイツ・バイエルンのヴィッテルスバッハ侯爵家の次女として生まれ、幼い頃からシシイの愛称で呼ばれて自由奔放に育った。 15歳のとき、オーストリア皇妃候補だった姉のヘレーナの見合いに同行したエリザベートに、フランツ・ヨーゼフは一目ぼれする。16歳でウイーンの宮廷に輿入れしたエリザベートは、窮屈で慎ましいしい宮廷生活を受け入れることができず、精神を患って転地療養生活を送る。 1867年、オーストリア=ハンガリー2重帝国が発足する。エリザベートはハンガリーを気に入り、国民から圧倒的に支持され、ハンガリーの外交はもっぱらエリザベートが担ったといわれる。ハプスブルク家の跡継ぎだった一人息子のルドルフが自殺すると、エリザベートは喪服を脱ぐことがなかった。 スイス・レマン湖ほとりで暗殺された時も黒い服を着ていたという。 (写真左: マリア・テレジアが好んで休息したというグロリエッテを背景に) <ブタペスト>・・世界遺産ブタペスト・ドナウ河畔 5月22日(土)午後ウイーンを離れた我々は、オーストリア・ハンガリーの国境を越え、ブタペストに夕刻到着した。 ≪ドナウ川クルーズ≫ ブタペストは夜景が素晴らしい。丘の端をオレンジ色に染めながら日が沈み始めてから、完全な日没がやってくるまでの時間、ポツポツト明りが灯り始める頃がいい。街の喧騒が静寂の中に吸い込まれる瞬間だ。 (写真左:くさり橋と王宮) (写真右:王宮・マーチャーシュ教会遠望とドナウ・くさり橋) 現地4日目になり始めて晴天に恵まれ、ウイーン見学とブタペストでの夜のドナウ川クルーズを満喫した。 明日はブタペスト~ブラチスラバ(スロバキア)へ向かう。 明日も天気にな~れ・・・と願う。 <次回:ブタペスト~ブラチスラバ、そしてチェコへ入る・・・・7月2日記> |
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