2007年7月発足以来続いている一期一会の飲み仲間
<エッ!誰だっけ?・・・認知症?>
日曜日の夕刻頃。とあるスーパーで、声をかけた人がいる。
「近くに住んでますか? 電車で帰るのですか?」
とどこかの主婦らしき姿の人。
<エッ? は―?> と声の主を見る私。 ハテ誰だったかなー? そういえばどこかで見たような顔のオバさん(失礼だが50~60歳とみえた)。ニコニコ顔で立っている。私がスーパーでレジを終えて品物をバッグに入れているところだった。 私が、戸惑っているとさらに彼女が言う。
「ほら、さっきマッサージでお会いしましたよね?」
(・・・マッサージじゃなくてマッサージプールです!)
<あー!マッサージプールでお会いしましたね>
「そうです、そうです。買い物はもうお済みですか?」
<あ、はい。私はすぐ駅の向こうですから・・・。> <お宅も近くですか?>
「ええ、近くです」
そんな会話の後に、やがて、
<失礼します>
と言ってお別れした。
彼女の会話に若干の外国訛りがあると感じられた。 そういえば、彼女は時々マッサージプールやサウナで見かけたことがある。 あまりプールでは泳がないようだ。ここのプールエリアには、そんな年配の男性や女性がよく見受けられる。きっとそんな人達は、泳ぐのが目的ではなく、マッサージプールやジャグジー、サウナ等でリラックスするのが主目的の人達のようだ。人によっては一日中いるという豪の者もいるとか。 そんな中で、彼女は数人(ひょっとしてそれ以上?)と顔見知りのようで、よく会話しているのを見かける。いつもニコニコと話している。人懐こいような人である。
私はこのスポーツクラブでは常連?の方であるが、もちろん彼女とお話をしたこともない。プールサイドで見かけた人程度でしかない。だいいち、プールエリアでは眼鏡を外さなければならないから、人の顔もあんまりはっきりと見えない・覚えていない。だから、場所が変わるとどこの誰だか思いだせないことが多い。いつも水着姿の彼女が、いきなり服装の身なりで思いがけないところで会うと、戸惑うものである。認知症なんかではない!と一人で苦笑いとなった。
翌週の火曜日のこと。(スーパーであった翌々日) 私は、プールから上がって帰り支度をしていたら、
「あれ!また会いましたね」と、また彼女とバッタリ。 「もう終わりですか?」 <はい。ここではいつも眼鏡をはずしているので・・・顔をよく覚えていませんでしたので、先日は失礼しました。> 「いいえ、こちらこそ。私、日本語がまだ下手なので・・・」 <そんなことありませんよ。ところで、どちらからお越しですか?> 「中国、黒竜江省・ハルビン、昔の満州ですよ」 「私は右の耳があまりよく聞こえなくて・・・、声が高くなります」 そのせいか、彼女の声は少し甲高いのです。 <そうですか。では、今日はお先に>
明るくてちょっぴりおしゃべりで、日本流に言うと、多少おっちょこちょいの感じがある人でした。 PR ● 今年も、日本中が相次ぐ日本人のノーベル賞受賞に沸いた。 2人受賞の快挙は、2014年の赤崎勇氏ら物理学賞の3人受賞に続くもの。これで2000年以降の日本人のノーベル賞受賞者数は16人(米国籍を取得した南部陽一郎、中村修二の両氏を含む)となり、米国に次ぐ受賞大国となった。自然科学分野の3賞に限れば、1901年の同賞創設からの累計でも、米、英、独、仏に次ぐ世界5位に躍り出た。 原動力は、バブル経済が華やかだった80年代に、潤沢な資金に後押しされて、画期的な基礎研究を成し遂げた日本人研究者が多かったことだ。往々にして、研究に対する評価が世界的に定着するまでにはタイムラグがあるので、2000年以降に受賞者が急増したとされる。 だが、手放しで喜んではいられない。受賞ラッシュはあと5年か10年ぐらいしか続かないとの悲観的な見方があるからだ。過去の栄光とは裏腹に、日本の研究開発能力は近年、急速に弱体化しているという <中略> ● 日本の基礎研究が息切れの気配 過去16年間のようなノーベル賞の受賞ラッシュは、今後も5年か10年程度続くかもしれない。素粒子物理学では、小柴氏がニュートリノを発見し、梶田氏が質量(重さ)を持つことを実証したが、それだけでは宇宙の質量の現状を説明できない。いわゆるダークマターの解明に、日本の“お家芸”が力を発揮する可能性は大きい。 「生理学・医学賞」の分野でも、今回、大村氏が受賞した微生物・寄生虫は、有望な分野だ。また、12年に受賞した山中伸弥・京都大学教授の万能細胞iPS細胞の実用化や、立体培養などでも日本の研究者が力を発揮している。 さらに、今年は大本命といわれながら受賞を逃した「化学賞」では、日本の研究者が世界に先駆けて大きな業績を残しているリチウムイオン電池の開発や人工光合成の分野がある。 ただ、気掛かりなのは、そうした日本の基礎研究が息切れの気配をみせていることだ。10年後には、また99年以前のように受賞ペースが落ち、受賞者は「数年ぶりの快挙」「数10年ぶりの快挙」と持て囃される時代に逆戻りしかねないという。 背景にあるのは、日本の経済力の低下だ。国単位でみると、研究開発は、経済力の勃興・拡大を追いかけるように進歩し、先進国の模倣に始まって次第に独自の基礎研究分野を広げながら、ノーベル賞の受賞につながるような大きな業績に至るパターンがある。そして、経済成長力が鈍るに従って、受賞者が減っていくのだ。 旧科学技術庁の資料をみると、日本は2000年当時、ノーベル賞の自然科学分野3賞の受賞者が6人と世界13位だった。が、昨年まで14年間で16人増えて、累計で米国(52人増の250人)、英国(9人増の78人)、ドイツ(6人増の69人)、フランス(5人増の31人)に次ぐ第5位に浮上した。2000年当時は、日本より上位にスウェーデン、スイス、オランダ、ロシア(旧ソ連を含む)など8カ国があったが、それらの国々は14年間の受賞が0~3人にとどまり、日本が追い越したのである。 しかし、日本経済は失われた20年を経験し、研究支援は他国のようなペースで増えなくなった。しかも、すぐおカネ儲けにつながる応用研究が重視され、ノーベル賞に値するような人類のためになる基礎研究には縁遠いテーマに取り組む研究者が増えている。日本の研究者の論文発表数が減少する傾向もみられるという。 さらに、公的な研究機関や大学の研究者のポストは終身雇用や長期雇用が前提でなくなり、数年単位に雇用期間を区切ったポストが増えている。短期間で大きな成果をあげることが、研究者の生き残りに重要な要件となっており、独自の道を時間をかけて追及するような余裕がなくなっているというのである。極端な例だが、STAP細胞をめぐる不正騒ぎの底流に、こうした余裕のなさがあったことは否定できないだろう。 今回、中国中医科学院の終身研究員が、大村氏と同じ「生理学・医学賞」を受賞し、中国人として初めて自然科学分野のノーベル賞の栄誉に輝いたことは、経済に続いて研究開発の分野でも中国が大きな飛躍を見せる兆しなのかもしれない。 研究者の能力や業績に対する厳格な評価は必要だが、あまり拙速を求めては研究者の将来の芽を摘むリスクがある。民間企業の研究所では容易ではないだろうが、少なくとも国費や公費を投入する研究所では、十分な時間をかけて基礎研究に取り組む環境を確保するなど、日本として抜本策を講じる時期を迎えている。
<木曜会・GOLFで出会った人> 昨日、毎月恒例の“木曜会GOLF”がありました。 秋空の下、快晴微風の中で楽しいラウンドができた。本日は、レギュラーメンバーのTAZ氏 が町内会行事で小旅行に出かけるため欠席。代打で、FNS氏が大磯町から参加してくれた。 いつものことながら、朝、ゴルフ場に向かう道すがら、幹線道路では通勤渋滞があるのだが、本日は特に酷い渋滞があって多少やきもきさせられたが、何とかスタート前30分ぎりぎり到着した。簡単に自己紹介し合って、パッティング練習する間もなくスタートとなる。 本日のゲスト・FNS氏はすらっとした長身の紳士で、いかにも飛びそう・うまそうな雰囲気の人。海外勤務が長くなかなか捌けた温厚な人であった。年齢は私の1年下で、この会の主宰者・ISM氏の後輩・部下であったようである。現役引退後は町内(大磯町)の町内会やボランティア活動等をやりながら悠々自適の生活といううことらしい。ゴルフはたまに楽しむ程度と言うことで、本日は、グロスで消防署・救急車並み(119)という不本意な数字であった。 F氏はお酒も好きらしく、生中&焼酎と私と同じようなWペースで付き合ってくれた。 帰りの車中で私が運転しながら、先日“高齢者運転講習”を受けた話をしたら、すっかりノッテきた。以下は、彼がその講習を受けた時のエピソード。 「同じ車に4人1組で受講生が乗って、一人が運転し、他の3人が同乗しながら交互に他の人達の運転状況を参考にしてください」と指導員。 実技講習の前に、「皆さんはどの程度運転していますか?」と聞かれて、うち2人は毎日、もう1人は時々と言う。 自分は「海外に勤務していた時は毎日乗っていたが、日本に帰って来てから10数年運転していません」と答えた。 「あの当時、海外(東南アジア方面)では、マニュアルドライブが多く、オートマチックの車はほとんどない。だから、実技の時に『このDは何ですか?』と聞くことから始まったのです」 「ところが、いざ実技が始まったら、自分(F氏)が実技運転する番になった時、他の3人は一緒に車には乗りたくないと言って、乗らないのです」 「仕方なく、指導員と二人だけで実技をやりましたよ。オートマチックのメカにはちょっと遅れていましたが、運転テクニックには自信がありましたから・・・」 「結果は合格で、『安全運転に気をつけてください』と言われましたがね」ワッハッハ・・・。 とても豪快な人でした。あんな人とならまたゴルフでも酒盛りでもやりたいと思いました。 <20数年振りに声掛けられた!山梨時代の同僚・・・>
「HaReさんじゃないか!」そう声かけられた。 土曜日の夕刻、いつもの境川サイクリングロードでウオーキングしていた時に、バッタリ鉢合わせ人がそう言って立ち止まったのだ。 声の主は立ち止まって、帽子をとり、サングラスを外してやおら名乗った人は「AOKです。お久しぶりです!」そう、その人は、約20年ほど前に山梨で本社で一緒に勤務していた頃の同僚(確か同じ年だったと思う)である。
彼もメーカー本社からの出向だったが、担当はサービス部門であり、普段はあまり仕事上の関連は薄かった。私は、山梨に約10年間・単身赴任していたが、彼は私の後半時代にやってきたので、お付合はほんの数年だったかもしれない。 私の方が定年の1年前に出向・転籍となったが、彼は、そのあと少し後になって定年を迎え、やはり都内にある会社に転籍したとのこと。そこで、あまり動かない生活をしていたので、約10年間で必要以上に太り過ぎてしまい会社を退職。その後は、リハビリ・ダイエットの生活を送っているとの由。
現在は、見た目には全く太っていたという面影もなく、すたすたと歩く様は、よく見かけるウオーキング中の中年・そのものでした。住まいは、東林間なので、このロードには近いとのこと。それにしても今まで出会わなかったのが不思議なくらいである。確かに、彼は毎日のように通っているらしいのだが、私は休日のみであり、又時間帯がちょっと違うようなので会わなかったのかもしれない。
20年も会わないでいると、姿・形も結構変わる人が多いのだが、彼の場合は顔もあまり変わらず、肌つやも健康そのものでした。 最近、テレビコマーシャルで見かける、「変わらないね~」のシーンではないが、彼と二人で『お互いあまり変わらないね~』と笑いながら、又会いましょうと別れた土曜日の夕方の出来事でした。
<週遅れの誕生日会がありました> 先週の土曜日に長女夫婦から“蕎麦会”のお誘いがあって、市内某所で昼宴会となりました。蕎麦には日本酒がよく似合う。やっぱり日本酒を頂く。 その席上で、旦那さんが“お好み焼き”が得意だという話が出て、次の日は、彼らの住まいの近くのゴルフ練習場で午前中は久し振りに打ちっ放しに寄って、その帰り道、昼時に彼らの家に招待されました。 料理をするのは旦那さん。見ていると、フライパンの扱いもなかなか堂に入っている。出来上がった“お好み焼き”は、数種類の具の違う焼き物で、なかなかいい味である。調味料のいるものといらないもの、野菜の種類も豊富である。私は思わず、【うまい!これなら商売できるね!」と褒めちぎる。
いろんな具が入っていて、又味がそれぞれ異なっていて飽きない。お好み焼きと言うけれど、中にはイタリアのピザにも似た味がするのもあって、初めての体験だったが、大満足でした。こんなメニューはどうして考えるの?という私の質問に、奥さん(娘)が笑って答える。こんなものがあるのよ!と見せてくれる。それはナント! 「○○お好み焼き」専用という冷凍食品の袋と小麦粉?の袋が二つ三つ。これを適当に溶いてかき混ぜて、あとはフライパンで適宜に焼く。焼き方が一つコツがいるようだ。旦那さんはそれが得意のようで、休日には奥さんに作って差し上げる。なんとも微笑ましい夫婦でした。『今度はお父さんにご馳走してあげよう』と言っていた由。感謝・感謝です。
素敵な“お好み焼き”を御馳走になって、ちょっと一休みしてから、 「これから、(淵野辺から)町田までサイクリング道路を歩いて帰りたい」と私が言うと、娘が、『じゃ、私も一緒に歩いて行きたい』と賛同してくれた。 かくて、日曜日の昼下がり、長女と二人でウオーキングに出かけた。距離は、だいたい6~7キロと予想された。何十年振りかで、長女と二人でウオーキングをなんて、ちょっとくすぐったい照れくさい気持もあったが、娘は最近ダイエットで、よく歩くとのことだったので、私も望むところと二人で約100分のウオーキングとなった。 親子水入らず?とはいうけれど、日中の最も気温が高い時間なので、途中のコンビニで水分補給までしてもらって、今では女房とも一緒に歩くことがないのにと思いつつ、娘との野次喜多ウオーキングでした。
週遅れの誕生日会は、二日間に亘って楽しいひとときでした。 ・5年ぶりの免許書き換えがありました。 |
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